朝日新聞福島支局のUさんという若い記者が、埴谷雄高さんの『無言旅行』を読んで、小高の般若家のお墓を取材したいといってきているのだが、一緒に行ってくれないか、と昨夜「埴谷・島尾記念文学資料館」の寺田さんが連絡してきた。それで今から三十八年まえの七月下旬、野馬追見物を兼ねて埴谷さんが相馬に来られたときのことを思いがけなく記憶の底から掬い上げることになった。その年、J会河口湖別荘(合宿所?)から朝早く出、祐天寺のM氏(島尾敏雄さんのアメリカ人友人)宅に寄って島尾さんの二人の子供(伸三君とマヤさん)と合流し、吉祥寺の埴谷さん宅に向かう。そしてそのときから始まった総勢四人の三泊四日の相馬行のことである。
とりあえず寺田さんが墓まで案内してくれるというので、喜んで同道することにした。午後一時半過ぎ、「浮舟文化会館」で寺田さんUさんと落ち合い、寺田さんの運転する車でさっそく墓に向かう。なにせ四〇年近くも前のことで、あらかた記憶がとんでいたが、小高い岡の中腹にひっそりと鎮座まします般若家の一枚岩の墓石を見た瞬間、いろんなことが思い出された。現在、その墓の下に広がる谷あいは畑になっているが、四〇年前は確か水田だったはずだ。般若家と同じく土着したサムライたち(牛渡、志賀、二本松など)の墓も寄り添うように立っている。近くの家から出てこられたKさんからいろいろ新事実を教えていただいた。四〇年まえ、墓に案内してくださった方(当時の私の記録にTさんとだけ記されている)の正確なお名前、そして般若家の裏山から岡田へと抜ける山道が、当時は般若峠と呼ばれていたことなどである。
ほんの小高い岡を越える道を「峠」と呼ぶのは大袈裟なのだが、しかしこの言葉に、今日の午後の不思議なひと時の全てが凝縮されているような気持になった。今朝方まで雨だったのに、まるで五月中旬のような暖かな午後となり、周囲の若葉の明るい緑や、山間から見えた空の青さが、何か不思議な感覚が呼び起こしたのである。たとえば、さしあたってのノルマなしにスペインを家族で走り回ったときの感覚にそれは似ていた。つまり何をあくせく生きてきたんだろう、このまま走り続ければ、別空間にするりともぐりこめるのでは、といった懐かしいような、胸が締め付けられるような不思議な感覚である。
久しぶりに味わった充実した時間を反芻しながら、長閑な風景の中を車を走らせて帰ってきた。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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