一昨日、電話で約束してくださったとおり、今日の午後、安岡章太郎さんから『天上大風』(世界文化社、二〇〇三年)が送られてきた。太いフェルトペンで書かれたサインも嬉しい限りである。書風は、良寛さんの「天上大風」のそれを意識されたのか、いつものサインより太めで豪快な筆致で書かれている。
実は配達物の中に、ネット古本屋からの、さらに三冊の安岡さんの本が入っていたので、今日の午後はさしずめ安岡章太郎デイーの感があった。ちなみに三冊はいずれも一九七〇年代のもので、『サルが木から下りるとき』、『人生の隣』、そして『方言の感傷』である。安岡さんの本は今まで大体全部読んだ気になっていたのだが、古本カタログを見ていたら、まだまだ読んでいない本がかなり残っていたのである。
それにしても、小説作品に限らず、さりげないエッセイまでも、なんとしなやかで自由な、そして鋭い批評精神のみなぎった文章であることか。一昨年亡くなった牛島信明さんと、いまだ活躍している文学者の中でだれが読むに値する作家か、と話し合うことがあったが、私はいつも安岡さんのお名前を出した。
昔、安岡さんとお話ししていたとき、安岡さんが、僕は(あるいは私は、とおっしゃったのだったか)批評しにくいでしょう、と言われたことを急に思い出した。そう言えば、今まで印象に残る安岡章太郎論を読んだ記憶がない。
なぜかな、と考えて、さしあたって一つの理由に思い当たった。つまり安岡さんの文章には、優れた小説の場合であっても、透徹した自己批評がすでに仕込まれているからではないか、ということである。一般的に言えば、作家の中にある批評家的要素は、小説そのものにとってはマイナスに働くはずである。しかし安岡さんの場合、創作家と批評家が実にほどよいバランスを保っているのである。
いつか「安岡章太郎論」に挑戦してみようか? やはり難しいだろうな。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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