伝えるべきメッセージ

先日、埴谷さんの著書と思って取り寄せた本の中に、厳密に言うとただ埴谷さんの対談が収録されているだけの本が混じっていた。山口泉の『新しい中世がやってきた!』(岩波書店、一九九四年)である。著者についてはまったく知らないまま、巻末の対談を読み始めたのだが、これがなかなか面白い。というより、埴谷さんがこの若い作家をしきりに持ち上げ励ましていることに、今さらのように感銘を受けるのだ。埴谷さんが、ときには無名の若者さえも対等に語りかけることを、たとえば江藤淳などは若者を甘やかし、結局は駄目にする、などとずいぶんひねくれた見方で批判していたことを思い出すが、果たしてそうか。
 私自身も。埴谷は絶対を求めているから結局は神を求めているのだ、何の根拠も示さずに何気なく言った言葉を、埴谷さんがいろんなところで、いろんな人に紹介しているのを。こんな若造の言ったことをいつまでも忘れないでいてくれるのかと、こそばゆいと思いつつも、本音を言えば心のどこかでちょっぴり誇らしい気持を持っていた。しかしそのことを、若者をおだてて結局は若者をスポイルしている、と批判するのは、やはりうがち過ぎではないか。江藤淳の場合はいささか嫉妬心めいたものが見え隠れしていて、事情はかなり複雑のようだが、私の場合は、あれ以来ずっと大きな宿題を背負わされたような感じを持っていた。
 こんな世の中だからか、あるいは自分が歳をとったからか、若い人たちに期待する気持がいよいよ強くなってきた。くだらねー地位や権力にしがみついているジジイやバハアにはうんざりしている。テメーら、若い人たちに結局何を残したのか、と腹立たしい気持ちになる相馬弁で言えば、ごせっぱら焼ける思いなのだ。そんなジジイたちの中に結局は自分も含めなければならないのは、まっこと慙愧の極みである。だからこそ、何も考えない若者には、いっそう腹が立つのだか。
 ただ問題は、自分には埴谷さんのように、若い世代に伝えるべき明確なメッセージがあるかどうか、ということなんだよなー。

【息子追記(2022年8月29日)】この文章は同人誌『青銅時代』第46号(2005年春)に掲載されていたものを、新たに転載したものである。何かの意図で、父は最初に収録したモノディアロゴスから後にこの文章を外したのだろう。

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