死ぬまで一度灤平に行きたい

午後の便で、古本屋に注文していたパール・バックの『大地』二巻本が届いた。昨日は同じく講談社から刊行が始まった「中国の歴史」の『ファーストエンペラーの遺産』と『巨龍の胎動』を町の本屋さんから買ってきた。四冊ともそれぞれ500ページ近い厚さの本なので、それでなくとも読書力が落ちてきた私が、全部読みきることは出来ないかも知れない。いやそればかりか、実は平凡社東洋文庫の中国に関するものを、ここ数日のあいだ二〇冊近くも取り寄せているのだ。
 この歳になって中国がこれほど劇的に急接近するとは考えても見なかった。東京で一人暮らしをしていた息子が、今日大連で中国の娘さんと結婚したのだ。1時間ほど前、無事登記を済ませたからとの電話があり、息子のあとにたどたどしいながら明るく可愛らしい声で、お嫁さんの声が飛び込んできた。こんなこと親として面目の立たぬことなのかも知れないが、わが家の双子は、つまり一児の親になって子育て奮闘中の娘も、今回の息子も、直前まで親には一切何も報告せず、ある日突然「今度結婚します」とホザキたもうたのである。ましてや今回は相手が外国の方、そしてインターネット時代の新しい出会いと言ったら、少しは聞こえがいいが、なんのことはないかつてのブラジル移民の写真結婚とほぼ同じ、それこそどう転ぶか分からない、まるで賭けのような結婚なのだ。勤め先の老人ホームでの勤務シフトを無理矢理変えてもらって三日間の休みを取り、昨日彼女の働く大連に飛び、今日無事婚姻手続きを済ませたというのだ。
 お嫁さんは撫順の在の出と聞いて一瞬胸にチクリと刺すものがあった。詳しくは知らないが、日本軍による大虐殺のあったところだ。もちろん若い二人の出会いにそんな古傷は影も落とさなかったと思うが、しかし歴史的事実としていずれは知るべきだし忘れるべきではないだろう。でも私としては今回の出会いと結婚が、満州帝国の役人の末端に連なりながら、折に触れて「日本人は一から出直さなければ」と悲憤慷慨しつつ三十四歳の若さで無念の過労死をとげ、中国の土となった父の導き、計らいに思えてならないのだ。
 さて今頃、撫順から遠路はるばる電車で駆けつけた彼女のご両親、そして妹と弟を迎えて、大連のどこかでささやかな祝いの席が設けられているはずだ。こちらもせめて気持ちだけでも、と夕食時、いつもより少し大目の酒盃を傾けた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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