くたばってしまえ!

先日、親戚に配るため35部ほど作った亡父の追悼文集で、富士貞房の説明がどうしても必要な箇所があり、二葉亭四迷がクタバッテシマエの単純な音合わせで作られたペンネームであるように、スペイン語のフジ(ヒ)ティボ(逃亡者)から作られた筆名である、と種明かしをしたばかり。だから彼の墓がシンガポールにあると知って他人事でない気がした。
 余秋雨も以前魯迅や周作人を調べているときに二葉亭四迷のことを一応は調べたそうだが、まさか彼の墓がシンガポールにあるとは夢にも思っていなかったらしい。二葉亭四迷は1909年2月、滞在中のロシアで肺結核を患い、その治療のためロンドンから船に乗って帰国の途中、シンガポールの沖合いで死亡し、遺体は同年5月その地に葬られたそうだ。すると染井霊園にあるのはシンガポールから分骨されたものか?
 ともあれ余秋雨は、軍人と慰安婦たちだけに占有されていると思っていたその墓所に一人の文人、それも日本近代文学の大物の墓があると知り「胸がすっとする思い」になる。そしてこう述懐する。「私は信じる、もしも二葉亭四迷の魂が地下をさまよっているとすれば、彼の一徹な性格からして彼はこの環境に大いに腹を立てていることであろう。日本の写実主義文学の大家として、彼が最も意を注いだのは日本民族の霊魂の問題であった。その彼がどうして我慢できよう……」
 私としてもこの余秋雨の善意あふれる希望的観測を支持したい。だが二葉亭四迷がこの地で斃れたのは、まだ日本帝国軍人たちの醜い野望が顕在化しない時代、まだ唐行き(からゆき)さんたちが大挙して南方に押しかけない時代である。もし彼が長命を恵まれたとして、はたして日本軍国主義の暴挙にどれだけ抵抗できたか、抵抗できないまでもどれだけ批判的姿勢を保ち続けられたか。後の大政翼賛会などのことを考えて、はなはだ心許無い気持ちになってしまうのである。
 ところで南方に渡った日本人娼婦たちの悲惨な運命を描いた山崎朋子作『サンダカン八番娼館』の映画化『望郷』は余秋雨も観たらしいが、「彼女たちが屈辱の中で故郷を想う情況だけを描いたとしても、それでは明らかにテーマが矮小化されている」と批判的である。私自身は映画を観ていないが、さもありなん、とは思う。原作はどうなっているのだろう。こんど探し出して読んでみよう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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