前略
〈ソネット形式による連作短歌〉「雪は降る」を拝読。一時期、妻がアダモの「雪は降る」を毎日のように聞いていた時があり、あの「トンベ・ラ・ニエジェ」(というふうに聞こえました)の甘い旋律が御詩を読んでいる間中、耳元で鳴っていました。それに季節はいまや梅雨の終わりかけ。そのずれも相乗効果を及ぼしたわけではないのですが、泣きたくなるような感動を覚えました。いや、アダモも梅雨も実は感情移入への単なるきっかけに過ぎず、読み返して詩本体の見事な措辞と配列に改めて感服いたしました。このところ御詩の主旋律はずっと「老い」。小生にとってもそれは重く大きな主題となりつつあります。もしかして「青春」よりももっと豊穣で希望に満ちたものかも知れない。だって今まで生きてきた、体験してきたことが無駄であるはずもなく、それらが「今」を幾重にも意味づけ照射しているわけですから、豊かでないはずがない。
といって「老い」は滑稽や悲惨と紙一重。医者に相談したこともないので、もしかするとそうでないのかも分からない妻の「認知症」と付き合っていると、いよいよその感を強くします。昨夕も、隣町の「スペイン語教室」に出かける直前のトイレの中で、紙が底をついていることを発見。ドアを開けて叫ぶ。「ママ、ママ、ウメさん(妻の亡母)の部屋の障子を開けてすぐのところにトイレの紙があるから持ってきて!」。パニクった妻は、買い置きのティッシュ・ペーパーを持ってきたり、果てはだれのかも分からない冬もののズボンを持ってきたり、およそ十分ほど、現在はウメさんの仏間に使っている部屋と便所の間をおろおろ行ったり来たり。怒鳴ったりするといよいよパニクるのを知りながら、つい怒声になってしまう。「もうなんど言ったら分かる?紙を使い切ったら必ず補充しておけって言っただろ。こんなことなら、たとえばパパが古井戸に落ちて、綱を垂らしてくれと叫んでも、そんなお前ならパパを見殺しにするんだぞ」なんてことまで叫ぶ始末。
さぞかし悔しいだろうな、思うように頭が働かず、およそ頓珍漢な行動に出てしまう彼女。でもさっきやったことは忘れても、心に焼きついた美しい風景、感動的な人との出会い、現実にか本の中でかははっきりしないがともかくある時覚えた胸の高鳴り…それらはけっして無くなっていないんだよなー。
だから「おちおちクソもできない!」なんて意地悪い捨て台詞など吐かずに、便所に入る時はまず紙の在る無しを確かめること。滑稽も悲惨もまるごと引き受けて、仲良く、互いに感謝しながら、ゆっくりゆっくり、まるで夢の中でのように美しく楽しく生きていこう。
すみません、貴兄の詩の話からとんでもない糞尿譚にまで筆がすべってしまいました。あっそれから送っていただいたカンパ、多すぎて恐縮です。それで御所望のなかった『新たな人間学に向かって』と『スペイン精神史の森の中で』までついでに送らせていただきます。これで貴兄は、佐々木孝と富士貞房の、これまで書かれたほぼ全作品を手中にしたことになります。といって別に自慢できることじゃありませんが。
T・N様