俳人・豊田君仙子については、すでに二回ほど書いており(2002年10月20日、2003年11月24日)、さらに付け加えられるほど、実は勉強していない。まずは彼の作品をじっくり読むこと、彼の生涯をたどってみること、さらに時間が許せば県の内外にあるという彼の句碑を訪ねてみたいと思ってはいるが。
ところで晩年の彼とは、拙宅に母を訪ねてきた折に数回会ったことがある。眉毛が太く、骨太だが布袋様のように実に温厚な顔をした好々爺という印象が強く残っている。今ではめったに聞けない純粋の相馬弁を話した。
島尾敏雄の『忘却の底から』(1983年、晶文社)によれば、彼は島尾敏雄の母トシの母方の従兄で、一時は許婚であったという。ということは、ばっぱさんともいとこ同士であり、私自身は彼のいとこ甥に当たるということか。そのへんの家系の流れをいつか調べたいと思いながら、まだ果たせないでいる。
さて天野秀延と豊田君仙子が戦前の一時期、村長と助役という絶妙のコンビを組んだことの当然の副産物として、両者がそれぞれ作曲と作詞を担当して地元の学校の校歌を作ったであろうことは容易に推測できる。こんなときインターネットの網は上手に目指す獲物を掬い上げてくれる。次に紹介するのはそんな校歌の一つ、現在も歌われている南相馬市立福浦小学校校歌である。
- 海は濃みどり
小山はしげる
畑も田んぼも豊かな実
ここは浦里われらの故郷 - 波がひびけば
心はおどる
いつも楽しく学びの庭に
励む良い子は 福浦育ち - 強くやさしく
素直にのびて
力一つによい里つくる
平和日本のわれらの希み
残念ながらメロディーの方は知らないが、伸びやかで温かい相馬の人と風景を髣髴とさせる歌詞である。