ハイカラ村長さん

平成18年に出版された『おだかの人物』(南相馬市発行)には、福島県相馬郡小高町(現在は町村合併で南相馬市となっている)ゆかりの10人が紹介されている。半谷清寿、杉山元治郎、平田良衛、埴谷雄高、島尾敏雄、大曲駒村、豊田君仙子、天野秀延、鈴木安蔵、渡部晴雄である。こんな小さな田舎町にかくも個性豊かな人物が10人も生まれたり関わったりしたこと自体驚きであり、十分に誇っていいことである。
 実はそのうち、小説家の埴谷雄高と島尾敏雄は、かく言う私が人物評を書いているのだが、他の八氏についても、機会を見てここで紹介して行きたい。とりあえず今日取り上げたいのは音楽学者・天野秀延(1905-1982)である。彼は後に小高町に組み込まれる福浦村の味噌醤油麹醸造業を営む家に生まれ、少年の時から洋楽のレコードを聞いて育った。相馬中学に入ったころからはマンドリンを弾くようになり、関西大学文学部英文科に進んでからは独学で作曲を学びはじめたという。
 彼に大きな転機が訪れたのは、大学在学中から始まったイタリアの作曲家マリピエロ(1882-1973)との文通である。彼はそれを契機に楽譜や研究資料を集めはじめ、いくつか研究論文をまとめ、それが後に『現代伊太利亜音楽』(1939年、アオイ書房)へと発展する。最近ネット古書店から求めた本には、彼自身のサインがあって思わぬめっけものと興奮したのだが、恥ずかしながらまだ読んでいない。
 ところで彼は大学卒業後、田舎に戻って家業を継ぐことになるが、音楽研究はもちろん、1940年には求められて村長となり、地域文化の育成に力を振るうこととなる。
 とここまできて、ようやく天野秀延と私の接点が見つかるのである。いやそのころ生まれたばかりの私が直接彼と接点を持ったわけではない。実はそれより六年前の1934年に結婚した私の両親が住んでいたのがその福浦村であり、結婚の仲人を勤めた豊田秀雄(俳人君仙子)は,後に天野に懇請されて助役となった人なのだ。相馬中学の五年後輩の父が、そんな開明的な先輩の影響を受けないはずがない。代用教員には不相応の立派な蓄音機に耳を傾けてる父の写真が残っているが、それはもうぜったいに天野秀延の強い影響下の行為に違いない。
 それにしてもそんな小さな村の村長がイタリア音楽研究の第一人者、助役が県の内外にその文名を馳せた俳人とは、またなんと贅沢でハイカラな土地柄であり時代であったことよ!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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