月一度の浮舟文化会館での講座「島尾敏雄を読む会」の日。夕方からは大雪との予報が出ていたが、出発する一時半は珍しいほどの青空。しかし車の中ではまたもや一悶着。妻の好きなニッキ飴を包み紙をむいて後部座席の彼女に取るように指示するのだが、それがうまく伝わらない。運転中だから後ろを振り返らずに飴をつまんだ手だけを背後に見せながら声をかけるのだが、その指先の飴を掴まずに指をつまんだり、あげくは手首を握ってくる。つい大声で罵声を浴びせる。青信号で振り向いてやっと彼女の口に入れることに成功。
これが運の尽きはじめか、会場には前任者の T さんだけ。20分近く待ったが常連の参加者の誰も来ない。さすがに意欲高速消滅。今日は休講にしてもらった。せめて喉だけでも潤そうと途中のコンビニでコーン・アイスクリームを購入。駐車した車の中で食べ始めたのだが、妻は途中でぱたっと動きを止めてその先食べようとしない。食事の最中でもときおり起こる不思議な行為だが、こちらとしては不如意な午後への苛立ちと怒りに点火したも同然。しかしこれは彼女なりの不審ととまどいの連鎖反応かも知れないと思い直し、強引に気を取り直して帰宅した。
ところで今日からはあの難物『死の棘』を題材にする予定だった。二枚ほど用意したプリントの一枚目は、長編『死の棘』に組み込まれた12の短編(それぞれが一章となる)と同じテーマを扱った11の短編の執筆順あるいは発表順のリスト。もう一枚は、それら作品に照応すると思われる『死の棘日記』の該当箇所のリストである。
つまり長いあいだ避けてきた長編『死の棘』は、意外と複雑な成り立ちを持っているということだ。昭和35年に講談社より刊行され、翌年芸術選奨を受賞した創作集『死の棘』と、昭和52年に新潮社から刊行され、同年読売文学賞、日本文学大賞を受けた長編『死の棘』は、内容は重複部分を持ってはいるが、作品としては別物であることはもちろん、作者がある時点から長編として構想し、51年の「入院まで」をもってついに完成させたという事実の重さに遅まきながら気付いたわけである。
もちろんもう一つ、島尾敏雄の文学理解のためにさらに重要な問題がある。すなわち、いわゆる「創作ノート」なるものを生涯作らなかった島尾敏雄だが、日記という明らかな原材料を、いかにして削り取り、省略し、ときに変形し、膨らませたか、その過程をつぶさに検証することで、彼の文学の本質に迫ることができるということである。少なくとも部分的な検証作業をやってみようか。
とここまで書いてきて、今日の午後から引き摺ってきたモヤモヤがいくぶんか消えたことに思い至った。書くことの効用か。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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