エル・エスペクタドール

EXPECTADOR という言葉は、英語の expect と語源を同じくする言葉で、「ある重要な事象を好奇心と夢をもって期待する人」という意味である。「手を出さずに、ただ側で見ている人、その事象に関係のない立場で見ている人」、「手を拱(こまね)く人」つまり「傍観者」ではけっしてないわけだ。要するに、ある事象に対して並々ならぬ関心と興味を持ちながら、とりあえずは手を出していないが、必要とあらば、あるいは好機到来とあらば、積極的に、喜んでそれに関わっていく覚悟のできている人のことである。
 事実、「刊行の趣意」には、「芸術・道徳・学問・政治に関する思想の幾掴みかでも生き生きと行き亙らせる」ことを望みながら、それらが「大衆新聞からはみ出してしまう」現況を憂え、それなら「出版屋のお節介は真平御免」とばかり自前でこの個人誌刊行に踏み切ること、それも「先生顔してお話をする」というつもりはさらさらなく、「あらゆることにつき私は熱にうかされた者としてお話する」、なぜなら私の本領は「事柄を前にして燃えた立つ」以外にはないからだ、と述べている(※引用はすべて西澤龍生訳『傍観者』、筑摩書房、1973年より)。
 以上、彼の意気込みは「傍観者」の対極にあるとしか言いようがない。それでは日本語で何と訳せばいいだろう。おそらく先人たちもここで立ち止まって、適切な訳語が見つからず、つい通りのいい「傍観者」に落ち着いたのであろう。expectacion とか expectativa(期待) という名詞や expectante(今か今かと待つ)という形容詞はあるが、observador(観察者)とか expeculador(投機家・相場師)のようには expectador という人間を意味する名詞はめったに使われない。
 いい訳語が見つからないまま、午後妻といつもの散歩に出た。車で東ヶ丘公園に行き、駐車して、いくつかの丘を縫って走る小径を歩くのだが、行き交う散歩者は私たちのように年配者が多い。今日も私たちよりは歳のいってる四人ばかりの、元気な(とは言いかねる、中の一人は杖をついていたから)おじいさんたちと行き会ったが、期せずして両方から「こんにちは!」と挨拶を交わした。気持ちのいいものである。子供や若い人からの挨拶ももちろん嬉しいが、人生の最終コースを走っている同年輩かそれ以上の方からの挨拶は、共に闘ってきた仲間からのエールに聞きなせて心に染み入る。
 いや、そんな散歩の途中で、もしかしたらいいかも、と思われる訳語を思いついた。「夢追い人」。うーん、歌謡曲のタイトルみたいか。ならば「希望的観察者」、うーん、これも硬すぎるか。「期待に胸膨らませる人」、むふっ、長すぎらー。どなたかいい考えありませんか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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