オルテガを読みたいのですが、最初なにから読めばいいでしょう、と時おり聞かれる。先日もある人にそう聞かれて、先ずは彼の哲学の出発点である『ドン・キホーテをめぐる思索』、次いで彼の思想の一つの到達点である『人と人々(個人と社会)』を読んではどうですか、と無難な答え方をした。つまり彼の名を一躍世界的なものにした『大衆の反逆』は、先の二著でその骨格を作り上げた彼の哲学の、いわば社会学的応用編である、と考えられるからだ。
しかし昨年来その『大衆の反逆』の翻訳作業を通して思い知ったのは、これはけっして応用編などというものではなく、それ独自の新たな展開と発展を遂げた思想だということだ。優れた思想であれば当たり前のことかも知れない。つまりある時点で発見され定式化された処方箋をすべての問題にただ当てはめていけばいい、などと考えるのは本物の思想というものを知らぬ者の早とちりだということ。
さてしかし、哲学者・思想家オルテガへの接近は先述の通りかも知れないが、オルテガという人間はそうした枠組みには納まりきらない広さと深さを持っている。それではなんという言葉で彼をくくることができようか。文明批評家? 違う。それではむしろ彼を矮小化することになってしまう。
結論を急げば、言葉そのものはいささか古めかしいが、人文主義者という呼称がふさわしいのではないか。もちろんルネッサンス期にエラスムス、ビュデ、ビーベスたちが実践し開拓したあの新しい知識人のあり方である。人文主義者という日本語があまりに硬いというなら、渡辺一夫が生涯追い続けたあのユマニスムそしてユマニストという言葉がふさわしいかも知れない。
つまり以後、近代化の波やナショナリズムの台頭、学問の専門分化の流れの中でいつのまにか姿を消してしまったあのユマニスト(本音を言えば、スペイン独自の人文主義思想を考慮するならウマニスタといきたいのだが、ここでは我慢する)という呼称ほど、オルテガを過不足なく表す言葉はないということである。そういう意味で、オルテガの多様な関心と旺盛な好奇心が巧まずして表現されている彼の個人誌『傍観者』全八巻が、もしかするとオルテガ接近のいちばんいい入り口かも知れない。
幸い、すぐれたオルテガの研究者であり紹介者である西澤龍生教授の『傍観者』全訳が存在する。密度の濃いオルテガ研究の盛んなドイツの事情は知らないが、わが国よりオルテガ研究の歴史があるアメリカでさえ、これの翻訳はまだではないだろうか。ただ西澤教授も他の研究者・紹介者も原題の EL ESPECTADOR を「傍観者」としてきたのだが、不適切な訳語ではないかと、と最近になって思いだした。それではどういう訳語が適切か。これについては稿を改める。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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