忘却の海に沈んでいた過去の断片がとつぜん浮上してくるのは、いつものとおりほんの偶然からである。午後、風は強いらしいが二階縁側の我が書斎は久しぶりに暖かな陽光に包まれていた。ふと埴谷さんの『死霊』が読みたくなった。しかし手製の背革合本は寒い廊下の隅の書棚なので、すぐ側の本棚にあった学藝書林版『存在の探求 上』に収められているものを読もうとして、そこに同じく収録されている椎名麟三の『スタヴローギンの現代性』というエッセイに眼が行った。
ちょっと読んでみて、やはり彼は小説の方がいいな、と思ったとたん、彼から直接いただいた名刺のことを思いだしたのだ。確かあれは世田谷区松原の線路沿い(井の頭線だったか小田急線だったか)の彼の家(小さな二階家)でだった。そのころJ修道会の哲学生だった私は、J会の出版事業(?)の一環として、ロヨラの聖イグナチオの自伝の翻訳を手伝い、その推薦文か何かを椎名麟三さんに頼みに行ったのではなかったか。それも同伴者がいたはず…そうだ、それからまもなく膠原病という難病で死んだ従妹の典子ちゃんと一緒だった!日大(芸術学部?)の学生だった彼女は、その近くに住んでいて、住所を頼りに椎名さんの家を尋ねるのを助けてもらったはずである。
狭い階段を上がったところが居間で、椎名さんの奥様がお茶を出してくれた。椎名さんはそのとき持病の心臓病のためのニトログリセリンを飲むところだったか、あるいはその薬の話をされたのだったか。結局、原稿依頼は不首尾に終わったはずだ。でもどんな会話だったか、ほとんど覚えていない。
従妹の典子ちゃんのことを何十年ぶりに思いだした。女ばかり四人の姉妹の次女で、小さい時から、男のいとこたちにまじっていちばん活発な子だったが、大学生になってもその性格は変わっておらず、伴侶選びも就職もすべて順調にこなしていくと思えたのに。
ところでその時椎名さんからいただいた名刺を大事にしまっていたはずだが、最近机の引き出しの中にも見かけなくなっていた。さて無くしたのか、それとも…そうだH君にやったのではなかったか。
思い出が次々に繋がっていく。そうだ、あれは八王子から移って間もないころだ、ある午後訪ねて来た彼が、むかし島尾敏雄を卒論に選んだが、実は椎名麟三が大好きだ、と言ったので、こんなものでよければ上げるよ、と引き出しから出して進呈したわけだ。
そのH君、いまどうしているのだろう。確か福島市の郊外に住んでいて、実家に帰ったとき、ときおり訪ねてくるようになったのだが、しばらく音信が途絶え、そのうち風のうわさでは病床に伏したらしい。いやそうなってからも何回か電話とメールでコンタクトがあったはずだが、そのうちまったく連絡がなくなった。N子ちゃんはあちらに行ってしまったので付き合いようもないが、生きている彼とは機会があればコンタクトをとりたいものだ。彼が書いた原町市私史シリーズは、このまま埋もれさすにはもったいない実にユニークな仕事なのだ。これについては稿を改める。
※ 昭和41年9月13日 (火) 昼前、椎名氏訪問(典子ちゃんと一緒)。午後、
遠藤周作氏と会う。(日録より)