私小説を超える

島尾敏雄は藝術選奨をはじめ多くの文学賞を受けたが、その際の受賞理由に「私小説の枠を超えた」というような意味の評価があったと記憶している。「…を超える」とは一般的に言うと、その超えられるべき対象とまず同じ土俵に立っていることが前提とされる。そうでなければ、それは「超える」ではなく「排斥する」とか「無視する」ことでなろう。
 「私小説」とは広義には、「作者自身を主人公として、自己の生活体験とその間の心境や感慨を吐露していく小説」であり、狭義には「日本独特の小説の一形態で、大正期から昭和初期にかけて文壇の主流をなした、いわゆる《わたくし小説》」である。もちろん以上の定義には、一切の価値判断は含まれていないが、しかし言外にはつねに、それを否定的に評価する風潮が歴然と存在したし、そして今も存在することは事実である。
 それをめぐっての論議は、たとえば小林秀雄の『私小説論』を嚆矢として近・現代日本文学そのものの中核を形成してきた太い流れであったと言えよう。つまりどの国にも広義の私小説があることはもちろんだが、狭義の「わたくし小説」がたえず問題視されてきたというわけだ。乱暴に図式化してしまえば、いわゆる大衆小説を別にするなら、わが国の近・現代文学は「私」と「わたくし」が描く弧あるいは同心円の中にすっぽり入る文学であったということになる。
 われらが島尾敏雄もそのような意味で、日本近・現代文学の伝統の中、というよりその主流に属している。
 前述の小林秀雄は、日本の私小説作家は、「わたくし」の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致の上に、自らの小説を展開したのであって、フランスの作家──ジイド、ゾラ、フローベールなど──のように、社会の軋轢と対決する、いわば「社会化した私」であったのとは異なる、と主張した。もちろん否定的に評価したのである。
 それなら島尾敏雄の小説が高く評価されたことの意味は、島尾敏雄の描く「私」が狭い主観的枠組みから抜け出て社会と対決する「私」を描いたからであろうか。もちろんそうではない。『死の棘』の主人公は、日本独特の「わたくし小説」のそれ、たとえば葛西善蔵の主人公よりもっと内向的で非社交的な存在である。受賞理由にこだわるわけではないが、それではいったいどのような意味で「私小説」を超えたのであろうか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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