日記は作品理解を阻害する

今日は月に一度の「島尾敏雄を読む会」である。先月は天気のせいか、他の行事が重なったせいか、参加者ゼロで、むなしく引き返した顛末はすでに報告した。今日は天気が良いせいか5人、といってそのうちの三人は資料館の新旧職員と妻ではあったが。
 いよいよ『死の棘』である。テキストとして、第四章「日は日に」のコピーが準備されていたが、今日は『死の棘』という作品を理解するために押さえておいた方がよいと思われる、二、三のポイントを指摘するにとどめた。
 先月も書いたことだが、まず『死の棘』は意外と複雑な構造を持っていること。つまり昭和36年に芸術選奨を受賞した『死の棘』と昭和52年に読売文学賞や日本文学大賞を受賞した『死の棘』は別物だということ。いや正確に言えば前者は後に後者に組み込まれる短編小説であり、後者は昭和35年発表の「離脱」から昭和51年発表の「入院まで」、それぞれ独立した作品として発表された12の短編がそれぞれ章として再構成された長編小説であるということ。
 いわゆる病妻物として書かれた短編は昭和30年の「われ深きふちより」から前述の「入院まで」23編あるが、そのうち長編『死の棘』に組み込まれない作品、いわば長編『死の棘』の裾野を形成する短編群が約半分の11編あるということ。問題は作者はいつごろから長編小説を構想し始めたか、そして組み込まれなかった作品と組み込まれた作品をどこで線引きしたのか。
 執筆順に並べられた作品リスト見ると、23編を平等に(?)並べて、これは取りこれは取らないという風に選んで長編を組み立てたわけではないことがすぐ分かる。なぜなら30年8月に書かれた「われ深きふちから」から35年9月に書かれた「家の中」までの11編はすべて選ばれず、昭和35年2月の「離脱」から昭和51年10月の「入院まで」の12編がすべて選ばれているからである。
 しからば内容的にみて初期に書かれた「われ深きふちから」以後、時系列に沿って順次「事件」が進展しているかと言えば、むしろ初期に書かれた短編の内容は長編『死の棘』の後半部(つまり妻に付き添って主人公も精神病棟に入る部分)に重なっている。
 なんだか面倒くさい問題を提起しているようだが、実際のところ仔細に検討していけば、ことほどさように「意外と複雑な構造」を持っているのだ。そしてさらに問題を混迷させるのは、実は『死の棘日記』の存在である。いわば作者の創作ノートのようなものだから、作品理解に役立つなどと簡単にはけっして言えない。むしろ作品理解を妨げる存在でもあるということ。つまり手がかりの多さ、必ずしも解決の容易さには繋がらないということだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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