毎夜10時ごろ妻を寝かしつけると、ようやく自分の時間が来たという感じになる。しかしその頃になると、今度は睡魔が訪れてきて、本を読む気力も注意力も極端に減少している。いやいや嘘を言っても始まらない。昼日中であっても、睡魔に襲われなくても、集中力も理解力もかつての半分以下になってしまった。
しかし今日の午後はいつもと少し事情が違った。机の上に積んであった小川国夫の本(「新潮現代文学65」)を久しぶりに手に取り、何度か読んだはずの「アポロンの島」を読み始めたのである。そして冒頭の「枯木」の文章のすばらしさに改めて感銘を受けた。島尾敏雄の言う「形容を抑制し、場景と登場人物の外面的な動きを即物的に写生し、透明な使い方によることばを、竹をたてかけるぐあいにならべただけなのに、その字と行の白い空間からかたりかけてくるなにかに、ひきつけられた」という小川評がまさにドンピシャリの作品であった。
そして思ったのである。読書量はこれからどんどん減っていくであろう。なにか新しい読書術、たとえば速読法を覚えて、読書量の減少傾向に歯止めをかけなければならないのであろうか。
そんなことはないはずだ。簡単に言えば、これからは量より質である。たとえば今日のように、いい作家、いい作品を、これまで読んだか読まなかったかを気にせず(なんだかすべてが初対面のような気がするので)、また前書きから後書きまで律儀に全部を読破するなんてことは考えずに、じっくりゆっくり読んでいくことにしよう。
もう一度スペインに行こうとか、死ぬまでにはぜひ熱河の灤平に行きたい、などと思っていたが、それも諸般の事情で行けなくなるかも知れない。でもそんなことはどうでもいいような気がしてきた。いいよ、本の中を旅するから。学界の新しい傾向とか、新刊本や新説などのことを知らなくてもいいや。たとえばこれから死ぬまで一歩も外に出られないようなことが起こっても、一切かまわない。
つまり今手元にある本だけでも、死ぬまで読み切れない。いや蔵書数は同業者の平均以下でも、想像力を刺激して、未知の世界へと導いてくれるだけの本は既に揃っている。現に今日の小川国夫の作品でも、本当に今まで読んだのだろうかと思わせるような、浅い通り一遍の読み方しかしてなかったわけである。
そうだ本物の読書人になろう! 読むことイコール生きること、になるように。遍歴の旅に出る前のドン・キホーテではなく、道中散々な目にあった後に、ようやくこころ定めて郷里に籠ろうとしたドン・キホーテに見習って、その素志を受け継ごう。その過程で、書くことに自然と移行してゆけるなら、なお素晴らしい。
【息子追記】ユマニストとしての父の師である渡辺一夫氏も、「読むことイコール生きること」と同様のことを著作(父の死後、購入した「渡辺一夫全集」)の中の随所で表明されていることに思い当たった。(2022年8月20日記)