いまいちばんしたいこと、と問われれば、起きる時間を気にしないでぐっすり眠ること、と答えるかもしれない。これは妻の世話から来る疲れのせいもあるが、季節が春であることと関係しているのであろう。
春が眠い季節であることを痛切に感じたのは小学六年生の春のことである。前年の秋、北海道から一家で移住してきて以来、半年のあいだお世話になっていた小高町岡田の大伯父、つまり母方の祖父の兄である井上松之助、の家から、今度は父方の叔父の親戚筋に当たる原町の林さんというお家の一部屋を借りることになって、旧街道を井上本家の英俊さんの馬車で家財道具込みで運んでもらって数日後のことである。洗面は家の前にある井戸端ですることになっていて、新しい学校での最初の登校の朝、洗面器にポンプの水を注ぎながら感じたあの強烈な眠気、いや眠気なんてものではなく、正確に言えば目の前が文字通り暗くなるような感覚である。
なんだかこれから待ちうける未来に対して絶望的なまでの徒労感に打ちひしがれていたと言ってもいい。子供は絶望しないというのは嘘である。ただ子供には絶望ということばが思い浮かばないだけである。つまり春は希望の季節であると同時に、また絶望の季節でもある。
そんな子供の時のことが記憶に鮮明であるということは、以後それに勝る絶望感に見舞われたことがないということかも知れない。実際、以後どんな不幸(といってもたいした不幸でもなかったからであろうが)に出会っても絶望したことはない。根が楽天的であるからかも知れない。その点、およそ絶望とかマイナス思考とはまったく縁の無いばっぱさんの血に感謝すべきであろう。
そのことを「砕けて当たる」と表現したこともある。つまり或る難事に対して、玉砕覚悟で突進し、結果、砕ける、すなわち「当たって砕ける」ということをしないのである。何のことはない、突進する前に、前もって砕け散っているのだ。それはちょっとかっこよくないのでは、と言われれば、生の重心を努めて低くするようにしている、と言い換えてもよい。地べた近くに構えているので、転びようがないのだ。
ところで表題の「暗い春」は、ヘンリー・ミラーの短篇集『暗い春(Black Spring)』(吉田健一訳、人文書院、1953年)から借用したまでである。なんとなく不思議なことばの組み合わせで、前から気になっていた。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 【再掲】「サロン」担当者へのお願い(2003年執筆) 2023年6月2日
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日