ルーティンの有難さ

心を締め付ける悲しいことや心配事があればあるほど、毎日の決まった手順を絶対に変えないで一日を終えたいと強く願う。今日もそんな一日だった。鬱屈するものが時折心を掠めるが、努めてそちらに意識が向かわないように、何事も無かったように時間をやり過ごそうとする。
 今日はもしかして今年一番の暖かい、というより暑い一日だったかも知れない。福島市では27度まで気温が上がったそうだ。さもありなん。昼食のあと、いつもの日程をこなした。いま「粛々とこなした」と書きそうになって、あわててその言葉を避けた。前からそうだが、最近特に保守党の政治家たちがこの言葉をひんぱんに使い出した。確か武田泰淳が政治家の日本語を取り上げた本を書いたと記憶しているが、そのうち読んでみよう。
 ともかく黙々といつもの午後のノルマを果たした。まずバッパさんを訪問する。部屋を閉め切っているのが息苦しいような暑さだったので、妻も私も久方ぶりの軽装で出かけた。バッパさんは最近すこぶる元気である。施設入所の条件の一つは、軽度の認知症を患っていることだが、バッパさんはどちらかというと高齢者に共通する通常のボケに過ぎないので、かなり症状が進んだおばあさんもいる施設に入れることに少しためらいがあったが、しかしグループホームの良さは妻の母親の場合で実証済みなので、あえて入れてもらっている。
 ちょうど昼寝から覚めたときだったが、最近夢の中に必ずじいちゃんばあちゃん(つまり彼女の両親)が出てきて、たいそう幸福な気持ちになると言う。同時に4年近く妻と同居しながら妻の認知症に気づかなかった、いや気づこうとしなかったことを反省している、などと殊勝なことを言うようになった。気づくのが遅すぎたなどとはけっして思わない。分かってもらって有難い、そう素直に感謝している。
 次に御本陣に寄る。急斜面の階段をゆっくり登っていくだけでも、この二人の老人には相当な運動になる。頂上から(といってせいぜいい20メートルくらいの高さだろうか)見下ろす野馬原やその向こうに横たわる(阿武隈山系はけっしてそびえてはいない)国見山などの眺めは、鬱屈した心を解き放ってくれる。私より体力がありそうな妻の晴れ晴れとした表情に安堵する。ボケたっていい、元気でさえいてくれれば、なんとでも難関を越えることができる。
 そのあとスーパーで買い物、そして帰りがけに嫁の入っている産院に寄る。二人部屋だが、現在は一人。そっとノブを回すと、いつも満面の笑みを浮かべて振り返る。あっパパ、ママと言う彼女の声に慰められる。ベッド脇の小型のロッカーの上に、誕生祝いに贈った赤いカーネーションの鉢植えがあるが、今日はさらに盛りだくさんの花をあしらった花かごが載っていた。先日、最初のお子さんを死産してしまった同室の妊婦さんが退院の挨拶がてら、誕生日を覚えていて置いていってくれたそうだ。
 このご夫婦のことを考えるなら、入院はしているが大過なく33週目を迎えられたことに感謝しなければなるまい。生まれてくる孫に多大の期待を寄せるのは酷な気もするが、私たち老夫婦にすれば、この孫が元気に生まれ出て、我が家に光と愛をもたらしてくれることを願わずにいられないのだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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