『宗教と文学』あとがき

二〇〇八年のあとがき


 本書の成立事情は一九八八年の「あとがき」のとおりである。「一冊だけの本」のまま、ひっそりと本箱の片隅に残されても、それはそれでいかにも本書にふさわしい運命だったかも知れない。しかしこのところ自分の書いたものを洗いざらい私家本にしてきた手前、本書だけを特別扱いにするのもどうか、と思い直し、呑空庵版として復刻することにした。
 本書に収録されている雑文は、書かれた時期が私自身の過去の中でも、出来ればそのままそっと隠しておきたい時期に当たるので、読み返して恥ずかしいという思いは半端じゃない。脇の下からほんとうにじっとりと冷や汗だか脂汗が出てくる類の恥ずかしさである。だから本書を人前にさらすに当たっては、一種マゾヒスティックな快感なきにしもあらず。いやもっと正確には「やけのやんぱち」である。
 本書のタイトルからして汗顔ものである。修練の途中で、まるで麻疹にかかったように文学づいた修道者の卵の姿が見えてくる。あのまま中途半端な気持で聖職者の道を進まなくて正解だった。鼻持ちならぬ神父になるところであった。
 原稿を整理しながら断片的に眼に飛び込んでくる文章を読んで今さらながら感じたのは、私にとって島尾敏雄という作家の存在というか影響の大きさである。生前、島尾敏雄は私が道半ばで還俗したことに、彼自身の影響があったのでは、と気に掛けていたようだ。ミホさんから同趣旨の思い出を聞いたこともある。島尾敏雄にしてみれば、ご自身の影響の有無はともかく、あのまま聖職者への道を全うしてもらいたかったのだろう。それは私自身よく理解できる。どう考えても文学などというものは、信仰の道とは正反対の、あえて迷いの道に踏み込むことだからである。
 以来、私はその迷いの道をまっしぐら。しかし還俗したことを後悔したことは一瞬たりとも無い。その意味で、島尾敏雄氏は嫌がるだろうが、氏に大いに感謝している。
 さてしかし、問題は、私にとっては恥ずかしいものかも知れないが無視できない、そして避けてはいけない過去、とりわけ宗教とか信仰といったもの(かつてのような形では以後けっして戻っていかないであろう世界)と、これからどう付き合うべきか、ということである。長いあいだ避けてきた問題だが、残された時間のことを考えると、もうそろそろ、いや待ったなしに真剣に考える時期を迎えているのかも知れない。その意味で本書の刊行はそのための一つのきっかけになるであろう。
 本書の内容について付言すれば、島尾敏雄氏からの二通の返信は一九八八年版に無かったもの、そして戯曲まがいの二つの作品のうち一つは(もしかすると二つとも)、会の友人たちによって石神井の神学校か、千代田区四番町の哲学院で上演されたはず。細部の記憶がないのは、たぶん私自身はそのころすでに修道服を脱いで帰省したあとのことだったかも知れない。このように記憶も定かでない大昔のものであり、果たして戯曲の態をなしているかまったく自信がない。少し我慢(?)して読んでいけば、「男はつらいよ」の一場面か、初期黒澤明作品のなかの一情景を連想させるところがある、などと自ら煙幕を張って逃げ出すしか、紹介の仕様がない。
 やめた、もうこれ以上弁解すると、文字通り「恥の上塗り」になってしまう。

              
二〇〇八年十月十四日 かつての著者記す。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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