正田昭氏からのはがきと第二書簡


はがき

1967年6月28日

 御無沙汰してすみません。先日あなたの訳された《ロヨラのイグナチオ》を先日、宮本さえ子先生からいただき拝見しました。立派なお仕事をなさったのですね。私の《黙想ノート》は7月にみすず書房から出る予定ですので、ごついでの折にどうぞ、“あけぼの” のシスターにお伝えくださいませんか
 (欄外に、いつ出版されるかお伝えする約束ですので)

 さて今日は一つ、おしえていただきたいことがあるのです。“直観” について、特に “至福直観” といわれるものについて、ふつうそのものの性質上、凡ゆる分析批判の埒外にあるようですが、コレを神学的・哲学的・心理学的各領域に分けたのち、そのおのおのについて理解を深めるためにはどのような本を読むのがいいのでしょうか。また、ひとりの宗教信者が“至福直観の果て”にいう“神のみ”といい、“神の現存の体験” といい、“キリストを生きる” というとき、かれの真に云わんとしているところは、果して何なのでしょうか。“至福直観”がなければ真の信仰はないのでしょうか。ソレは一つの確信ですか、或は曰く云い難い超越意識?



第二書簡

1967年7月3日夕

†主の平安

 拝復
 “至福直観” について、早速御返事下さってありがとうございました。御文によって現在私の考えてゆきたい問題が、神学と哲学と心理学との三方面にひろがりをもつことが分りました。特に、一般にいわれるそれが専ら心理学的領域に屈するものであることが、いま、考えられます。
 また、よい御助言を聞かせて下さい。《黙想ノート》についてシスターにお知らせ下さってありがとう。あなたが私のエッセイをみて少々おそれていらしたと伺って、ニヤニヤしているところです。たしかに私は権威によりかかった教条主義は大嫌いですし、“いわゆる神学者” がどうしても好きになれず、教会のエリートには友情を感じることが出来ません。すなわち「正田さん」はこわいですよ!
 そこで、個人的に私のいたづらで明るい面を知っていてくださる人々は、みんな、ソレも亦書けと仰有るのですが、私はソレラ凡てをひたすら人々の目から隠して、己が身分にふさわしいように、そして皆さんが心の中でひそかに思いはするものの、決しておもてには云いあらわさぬ事どもを、にくまれついでにエイヤッとばかりに書いて来たわけです。
 で、いましばらくは、皆さんからこういう自分を隠していたいので、もしお会いしていただけるとしても、もうすこし先にしていただけたらと思っています。

 あなたの今着手なさっているお仕事が立派に仕上りますように。

   暑くなりましたね。    草々

正田 昭  

※ “至福直観” とは、などという難問にどんな答えをしたか、残念ながら下書きなどは残っていない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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