記憶から消えていた過去

正田昭氏の手紙が入っていた箱(ブリキと書いたが、本当は薄い桐製の箱だった)には、まだまだ珍しい手紙が入っていた。母方の叔父、つまり先日バッパさんを訪ねてくれた健次郎叔父の長兄、というよりバッパさんのすぐ下の弟、私達一家と相前後して旧満州に渡り、また相前後して一家四人で引き揚げてきた誠一郎叔父の手紙もその一つである。
 株で家産を無くして十勝開拓に参加せざるを得なかった祖父の強引な方針、すなわち文学などという虚学より実学を学ぶべしとの方針に従って獣医の道に進んだが、出来れば文学をやりたかった叔父である。年下の従弟の島尾敏雄が小説家として世間に認められだしたころ、ちょっと羨ましそうな口吻で彼のことをしゃべっているのを聞いたことがある。引き上げ後は十勝の山奥で教員をしていた彼も、私の父と同じ結核で1965年、五十歳の若さ(今の私から見ればまさに若くして、である)で死んだ。それよりさらに早く、最愛の妻に死なれて、兄弟の中ではいちばん幸薄い生涯だったと思うが、三人の息子のうち長男が医者、次男の娘の一人も医者の道に進んだのは、病に斃れた叔父夫婦の影響であろう。私にとって親戚の中ではいちばん話が合った叔父であった。
 その叔父の3枚に亘る手紙を読んでいるうち、私の記憶からはなぜかすっかり消えていた過去の出来事が甦ってきた。いやまだはっきりとではなく、ぼんやりと輪郭が見えてきただけだが。ちょうど同時期の母や姉などの手紙も見つかったから、それらを読み合わせれば、更にはっきりしてくるかも知れない。
 要するに、そのころ私は東京都下の別の叔父の家に世話になりながら、上智大学に通っていたが、昭和33年(1958年)の秋、バッパさんの結核の再発、さらに多分その年か前年に建てた家のローン(と当時言ったかどうか)の支払いが思うようにいかず、世話になっていた叔父からは大学を中退するよう責められ(?)、それを見かねて、誠一郎叔父やら宗巳叔父さん(幸子叔母の連れ合い)から、なんとしても中退はせずに頑張るように、必要ならば経済的に援助するから、と励ましの手紙をもらっていたのだ。
 そんな深刻な事態に陥っていたことなどすっかり記憶から消えていた。辛うじて思い出すのは、ある日、そのころ出たばかりの「朝日ジャーナル」(1959年3月か)を購入したことを叔父に咎められ、つまりそんな情況なのに週刊誌を買うなど贅沢だと言われ、それが引き金ではなかったと思うが、叔父の家を出て、初台にあったレデンプトール修道会経営の学生寮に移ったことである。
 貧乏学生は私だけではなかったが、そのころいろんなアルバイトをやったことを思い出した。いちばん実入りが良かったのは、家庭教師だったが、他にトンプソンという外資系会社の市場調査の仕事や、日比谷公会堂の出場資格を得るために新人音楽家の代わりに順番待ちをするアルバイトとか、映画のエキストラなどをした。
 もちろん日本育英会の奨学金ももらっていたが、どう考えてもバッパさんの仕送りが無かったら学業を続けられなかったはずだ。その頃兄は神学生としてカナダに渡っていたが、祖父母の家から帯広畜産大学に通っていた姉は、中退してバッパさんのもとに帰ったのだ。いやー、いろんな人のおかげでこれまで生きてきたんだわさ、一人で生きてきたような顔せんで、よっぽどケンソンにならなけりゃならんべさ。いやまったく。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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