愛の顔が見たいというので、いつもの訪問のとき、バッパさんを車で家まで連れてくることにした。実は約束したのは昨日のはずだったのだが、行ったときはベッドに寝ており、おまけに約束のことはすっかり忘れていたので、今日に延ばしたのだ。しかし久しぶりのドライブなので、家に行く前にどこか行きたいところがないか、と聞いたのだが、かなり大きな声を出したのにはかばかしい返事が返ってこない。それで新田川河畔に連れていくことにした。2、30羽の鴨の群れが二箇所に浮かんでいたが、なにたいした風景ではない。
そのあとスーパーに寄って、猫の餌(というよりキャットフードという方が言いやすい)を買って家に向かった。今日は車から降りないで、玄関先で会ってもらうことにした。頴美に抱かれて車のところまで来た愛、起きたばかりか、いまひとつ愛想がよくない。五日ほど前から、声をかけると、鼻の上に皺を作って、いわゆる愛想笑いをするようになったのに残念。
でもバッパさんは、可愛い曾孫に会えて満足したらしい。しかし私自身は何だかわけの分らない疲れを感じている。この先なんにも面白いことに出会えないような、このままずっと今日の午後みたいな、晴れてるでもなし曇っているでもないぼんやりした毎日が際限なく続いていくような感じ。
そういえば美子は、まだ八王子にいたころ、つまり2000年ごろから、ときどき頭の芯がざわざわするような、いやーな感じに襲われる、と言っていた。今から考えると、あれが認知症の始まりだったのだろう。でもあのとき何らかの手を打ったとしても、たかだかその進行を少し遅らせただけの効果しかなかっただろう。
私の疲れは、そういったものとは違う。生きることに対する漠然とした疲れ、要するに贅沢病にすぎない。このごろ、時おり、いまのいま、死と戦っている友人のことを想っている。医者からこの夏は持たないだろうと言われたよ、と笑いながら電話で告げられたとき、なんて答えたらいいの言葉につまった。いまどうしているのだろう、と想いながら、こちらから声をかけるのがこわい。
結局今日は何をしたのだろう? 本も読まなかった、運動もしなかった、辛うじて『モノディアロゴスⅡ』を一冊作った、そしていま書いているなんの変哲も無い文章。ちょっと前にようやく美子を寝かしつけ、さてと机に向かったのだが、出てくるのは牛の涎のような、意味のない言葉の羅列。
そんなことを言いながらも、夕食後、いや正確には夕食をはさんで世界クラブ・サッカー選手権(?)の三位決定戦を見たし、さらにはM1グランプリ(漫才選手権です)とサッカー決勝戦を見たんだから、けっこう生活楽しんでるでねーの。深刻なポーズはこれでおしまい。
でもやっぱ疲れてる。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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