検索から見えてくるもの

Tedio de la vida(生の倦怠)という言葉を書きつけながら、頭のどこかでこれはラテン語 taedium vitae のスペイン語訳ではないか、つまりすでに格言の域に達したラテン語の表現のスペイン語訳ではなかったかな、と思っていた。さっそくグーグルで検索して、いろんなことが分った。
 たとえばそれは、イギリス・ヴィクトリア時代(1837-1901)に、とりわけ自殺の原因として多く使われた言葉であるとか、オスカー・ワイルドの作品にその言葉が見られるとか、あるいはロシアのパワー・メタル・バンド「カタルシス」の持ち歌の題名であるとか、あるいはメキシコのポトシ市の新聞「エル・ソル・デ・サン・ルイス」の「意見」というコラムで、フアン・ヘスス・プリエゴという人が「ある友人への手紙」という一文を載せ、そこに生の無意味さ・味気なさからどうしたら抜け出せるか、懇々と説いていることとか、同じくメキシコ中西部の都市グアダラハラ市の季刊書評紙の名前であることなどなど。
 ところでその書評紙の最新号(6号)には「ニューヨーク書評紙 (New York Review of Books)」に載ったGarry Wils(1993年のピュリッツアー賞受賞者)の、聖職者たちの少年愛(pederastia)というスキャンダルをめぐる厳しい論調を紹介している。
 いやそんなことはどうでもいいことで、言いたいのは、生の倦怠という言葉の検索からどんどん世界が広がってゆく、というより、どんどん歴史や文化の深みにはまっていくということである。検索を上手に使えば、いろんなことが見えてくる。
 いま話題の Wikipedia 問題がどんな問題なのか、実は調べてはいないのだが、その利用も含めて、「知の共有」が思っている以上のスピードで進んでいるということだろう。
 ところで生の倦怠は何に起因するものだろうか。ごく乱暴に言い切ってしまえば、生に対する人間の二つの見方のうち、一方だけが肥大増殖したからである。つまり人間に起こるすべての現象は、日々新たなり、という見方と、日の下に新しきもの無し、という見方のうち、後者だけが重くのしかかってきた結果であろう。人生の空しさ。
 確か聖書に「空の空なるかな、すべては空し」という言葉があったはず。さっそく検索すると、あった、旧約聖書「伝道の書」の冒頭にあった。そこで大事なことを思い出した。わがウナムーノが、この言葉を逆手に取ったエッセイを書いていたことを。「充実中の充実」(“Plenitud de plenitudes y todo plenitud”, 1904)である。この作品、共訳ではあるが、かつて自分が訳した作品。そうだこの機会に、ウナムーノを読み返そう。人生の機微に触れるたくさんの文章を書いているのだから。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク