ある夢想

子供の頃から、たとえば夏休みの計画など守れたためしががないので、今年の計画は初めから立てるつもりはないが、今年にかぎらず死ぬまでにやりたいことを敢えて言うとしたら、漠然とながらこんな夢を持っている。
 この町に住む子供たちのために、人生論や進路指導のようなものすべてを総合したようなガイドブックを書きたいのだ。要するに、自分が生まれ育ったこの町で(も)、豊かで充実した、そして張り合いのある人生を送ることができることを証明し、そしてそのための見取り図、いやせめてヒントのようなものを示したいのだ。
 時おり散歩する新田川河畔に下水処理場がある。構内はかすかなモーター音のほかは物音一つせず、所員の姿を見ることも滅多にない静かな一隅である。側を歩きながら、時おり変な想像をすることがある。つまり自分はそこの所員で、毎日きまった手順で何の変哲もない業務を黙々とこなしている。子供たちの成長に合わせて世間とのつながりはそれなりにあるが、しかし政治や戦争など世の中の変動とはほぼ没交渉のままの生涯を送る。そんなとりとめもない夢想をくり返すうち、そうした動きも変化もない一生に不思議な憧憬を覚えるようになった。
 彼は(あるいは妄想の中の私は)井伏鱒二の山椒魚のように、心ならずそうした境涯に追い込まれたのではない。むしろ彼は積極的にその生活を選び求めたのである。もちろん彼は引きこもりではない。むしろ世界や宇宙に対して常人以上の関心と興味を持っている。つまり彼の内部、彼の精神世界は広大無辺で、いまさら世界を旅しなくとも、極めるには死ぬまでかかってもまだ足りぬほどの未知の領域が残っているのだ。
 木下恵介の『喜びも悲しみも幾年月』の場合は、人里はなれた燈台守の話だったが、それでも日本各地の風光明媚な灯台を巡る変化があった。しかし私の妄想の世界は、場所移動の変化さえないのである。
 先日の話にとつぜん戻るが、そうした一見、いやどう見ても無味乾燥な生活を全うするには、よほど強固な哲学が必要となる。
 宮沢賢治はなぜ近所の河畔を「イギリス海岸」などと命名したのか。その理由は分らぬが、私にはそれが一つのヒントとなる。つまり自分の住む場所が、決して都から遠く隔絶された地ではなく、その都さえも飛び越えて一気に世界と繋がっていることを意味するからである。この場合、地理的に不可能なことでも、意識的にはぜんぜん(?)可能なわけである。
 話があっちこっちに飛ぶので、お分かりにくいと思うが、私のガイドブックでも、賢治風のトリックが随所に使われるはずだ。そして賢治の時代と現代とでは、決定的に違うことが一つある。すなわち単に意識的あるいは観念的に繋がるだけでなく、視覚や聴覚を通してリアルタイムで世界と繋がれることである。だから負け惜しみや錯覚ではなく、まさに自分が世界の中心に位置することができるのだ。
 そのガイドブックは、もしかすると、青春小説の格好をとるかも知れない。つまりこの地に生を享けた一人の少年が、周囲世界との相克に悩み、傷つき、そして恋に目覚めながら次第に成長してゆく姿を描くことになるかも知れない。難しく言えばドイツ文学のビルドゥングス・ロマン(人間形成を描く教養小説)的なもの。えーっそれ無理、てんで無理!
 だから最初に言ったように(言った?)初夢にすぎません。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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