前言取り消し

先日、思想界の二人の巨人の「老い」に対する姿勢を比較して、吉本隆明の方により親近感を覚えるというような趣旨の発言をした。その時はまだ老いをめぐる彼の著作を読んでいなかった。その後、ネットの古本屋さんから『老いの超え方』という本が届いた。きっちり読むと言うより、飛ばし読みをしただけだが、先日の感想を修正したい気持になっている。
 以前、どこの新書だったかは忘れたが、知的生活に関する本が大ベストセラーになったことがある。著者は某私大の有名教授で今も保守派の論客として活躍、いや気にも留めていなかったのではっきりとは分らないが、たぶんまだ頑張っているのであろう。その本を読んでいて、とたんに興醒めしたことがある。つまり頭のためには赤(だったか?)ワインがいいとかの御託を述べているくだりである。
 よくもまあ臆面も無くご立派な知恵を授けてくれることよ、とがっかりしたのであるが、今回は吉本隆明も老いを超えるためのグッヅ(とはまたいやな言葉であるが)を写真入で紹介している。いいよいいよそこまでサービスしなくったって、と可哀想になってきた。
 『老いの超え方』は、たぶん朝日の記者と思われるインタビュアーの問いに答えていく、という形式になっていて、飛ばし読みするにはいいかも知れないが、後から著者の推敲がなされたとは思えぬ、実に雑な筆記録となっている。かつて『擬制の終焉』とか『言語にとって美とは何か』のような硬質な文体の著者とは別人のような、緊張感の無い文章がだらだらと続いている。
 果してどこでだったか思い出せないのだが、最近の彼の言動で、外国から非難されるからといって靖国参拝を止めるなどのことはとんでもないことだ、といった趣旨の発言があったようで、おやおや何をまた言い出すのだろう、とビックリしたことを思い出した。その真意は発言全体を見てみないとにわかには判断できないが、しかしかつてオウム真理教に関しての発言同様、文字通りの意味でそう発言した可能性はある。つまり外国から非難されたから、ということを唯一の理由として一国の指導者が態度を決めるのは確かにおかしいが、彼が言うのはそうではなく、参拝それ自体は関係諸国がどう思うかなどに全く関係なく、もっぱら自主的判断にのみまかされるべきだ、と言ったとしたら、それこそ思想ボケだと思う。
 中世の神学者たちが、針の先に何人(?)の天使が止まれるかを真面目に議論したように、ときに思想のスコラ的展開、つまりこの場合他の要素・条件をすべて排除した上での思想の自立性のみを追求する思考形態といった意味だが、にえてしてそうした思想のアクロバット飛行が紛れ込んでしまうことがあるのでは、と思わざるをえないのである。
 いやそんなに目くじらを立てないで、可愛いおじいちゃんが自分のボケ防止のグッヅを自慢している、と温かい目で見てやるべきなのか。でもそれだと、思想家吉本隆明を侮辱したことにならないかな。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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