これまでは朝食後から昼食までのあいだ、たいてい妻は「はなまるマーケット」などテレビ番組を見ていた、というより見せていた。しかし大して面白くもなさそうなので、このごろはレコードを聞かせたり、むかし録りためていたテープ音楽やCDを聞かせたりしている。アルフレッド・ハウゼのコンチネンタル・タンゴなどがお気に入りのようだ。
今朝は思い立ってアルビノーニのアダージョ(カラヤン指揮ベルリン・フイルハーモニー管弦楽団)をかけてみた(はてCDの場合、レコードのように「かける」でいいんだろうか?)。この荘厳だが切なく甘い旋律を聴いていると、葉を落として金属的な線を冬空に際立たせている立木の列、そんな情景が眼に浮かんでくる。それはこの曲が効果的に使われていた向田邦子原作のテレビ・ドラマのシーンが強く脳裏に刻まれているからだろうか。17世紀から18世紀にかけて活躍したベネチアの作曲家の作品ということなので、いかにもイタリア風の曲と思いこんできた。
しかしベネチアと冬空というイメージがどうもしっくりしないな、とも思っていた。念のためにグーグルで検索してみた。すると次のような説明にぶつかった(ウィキペディアからと思っていたが、後から調べてみるとそこからではなかった。他にいろいろ探してみたが、どうしても見つからない。狐につままれたような気がするが、以後引用の場合はしっかりメモをとっておこう)。
この作品は、トマゾ・アルビノーニ(1671-1750、ベネチア)の『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合国軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった。
作曲様式から見ると、息の長い旋律、幻想的な展開とそれを支える半音階的な和声進行、曲の長大な傾向など、18世紀半ばのイタリア・バロック音楽の特徴よりも、北ドイツ18世紀初頭のバロック音楽の特徴が顕著であり、この曲の音楽語法はアルビノーニの真作の緩徐楽章の様式にも合致するものではなかった。
これで先ほど私が漠然と感じていた違和感が氷解した。つまり前述のテレビ・ドラマでの使われ方はまさに適切だったわけだ。ところでそのドラマの題名が何だったのか、そして主人公を演じた俳優が誰であったのかがどうしても思い出せない。たしか主人公の妻が吉村実子で、その親友が杉浦直樹だったことまでは思い出したのだが。それで手がかりとなる二つの言葉(向田邦子とアダージョ)を入力して検索してみた。するとたちまちこういう説明文がみつかった。
『あ・うん』は、1980年3月9日から3月30日までNHKで放送された向田邦子のテレビドラマ。テレビドラマとして続編が制作され、1981年5月17日から6月14日まで放送された。向田邦子は大人の恋の物語としてこのドラマを続ける意向であったが、邦子の1981年飛行機での事故死により中断した。
つまり題名は『あ・うん』、主人公水田仙吉を演じたのはフランキー堺だった。そして主人公・水田仙吉が志賀直哉の「小僧の神様」からとられた名前であることまでが載っていた。
ことのついでに先日「徹子の部屋」で、そのアダージョを見事に歌ったオペラ出身の四人組の名前を調べてみた。キーワードは「イケメン4人組、アダージョ」である。するとこれも一発で出てきた。「クラシカル・クロスオーヴァーの世界で不動の人気を誇るイル・ディーヴォ」。
この調子で検索していくと際限なく深みにはまっていくようで怖くなってきた。ボルヘスの作品に、すべてを記憶する男の恐怖を描いた短編『記憶の人フネス』があったが、それとは又違う恐ろしさを感じる。この辺で引き返そう。本当はそんな探索より、今朝アダージョを聞いていた妻がなぜか眼に涙を浮かべていたことを書こうと思っていたのだが。