島尾敏雄が晶文社版全集の月報に連載し、のち『忘却の底から』という単行本に集められた文章群は、どちらかと言うと母方の井上家に関する叙述が多いが、そのおかげで私の知らなかった先祖について教えられるところ大である。ただ彼がそれらを執筆するときに、彼にとっては伯父の幾太郎の書いたこの『吾が家史』は参照しなかったのではないか。それはたとえば「知り得る最初の先祖の名」関東黒羽藩士新谷源太についてのこんな文章からも伺える。
[伯父幾太郎が] 昭和三十九年に私に与えた手紙の中に(彼はその時数え八十五歳であった)「新開(と彼は表記している)源太、享保年中高野山より御祈祷の巻物を持来現に私所持」と書いているところを見ると、或る程度のしらべはついていたのかも知れない。もっともその巻物なるものを私は見ていないが、同じ手紙の中に同封された系譜の写しには源太からいきなり源左衛門の代に点線でつながっていて、その間は欠落したままである。……なお幾太郎伯父は「私等の祖先ハ歴とした士族であってその証拠ハ福岡の田村家が本家で色々のことは私ハ皆記録して系図書も皆んなにやっています。
これで見ると、いま私が手もとに持っている『吾が家史』そのものは見ていないようだ。自分たちの先祖が武士階級であったと確たる証拠もないまま強弁している祖父のことで、先日再度観た黒澤明の『七人の侍』で三船敏郎演ずる素性の知れぬ男が、どこで手に入れたか拾ったかした家系図を根拠に自分を侍と言い張ったシーンを思い出した。その系図では三船演ずる偽侍「菊千代」は十二歳のはずで、それでなくても彼の出自は誰の眼にもばればれだったのであるが。
いずれにせよ他人の家の系図など第三者にはどうでもいいことなので、これ以上は続けないが、幾太郎の書いたもう一つの『吾が家史』にも少しだけ触れておきたい。井上家の系図には多くの欠落部分があって、遠い先祖は杳として歴史の暗闇に消えていくが、婿入り先の安藤家の系図もそれ以上に謎と欠落に満ちている。つまり祖父幾太郎は井上家の場合よりはるかに少ない資料をもって『吾が家史』を書こうとしているのだ。この方はさすがに分量が少なく、半紙7枚に毛筆で書かれている。
「安藤庄八翁は天保三年九月十五日陸奥国八戸町川内村に生る幼名を興八と称す家世々農なりしが天保四年三月翁二歳の時父庄八母つぎ姉きみと一家を挙げて移住を企て郷里を去りて磐城國標葉群大堀村瀬戸焼業庄次郎といへるものに寄る……」という書き出しである。言い伝えに寄ると、このとき二歳の赤子興八は天秤棒で担がれての旅だったと言う。
天保三年といえば1833年、あの大飢饉が起こる直前である。しかしその時代百姓の分際で移住などできただろうか。幾太郎は川内という地名を記しているが、以前八戸に問い合わせて判明したように、彼の地に川内なるところはないのだ。八戸と安藤という姓から反逆の思想家安藤昌益と関係ありや否や。などと歴史推理小説並みの謎解きへの好奇心を持ったまま、もう何年も暇も手がかりもないまま時間だけがすぎているが、祖父が一族の痕跡を歴史の中に探ろうとした年齢が今の私とほぼ重なるので、ここらで少し動き出そうかな、と思っている。