大江健三郎の作品名によく詩の一節が使われる。初期の『見るまえに跳べ』はたしか W. H. オーデンの詩から取られたと思うし、『われらに狂気を生き延びる道を教えよ』、『自ら我が涙をぬぐいたまう日』など、調べるまでもなく誰かの詩の引用であろう。もちろん今回の『臈たしアナベル・リイ…』も、E. A. ポオの詩「アナベル・リイ」からとられている。小説の冒頭、ナボコフの『ロリータ』新訳に書いた作者の解説文が引用されている。今不用意に作者と言ったが、どう考えてもこれは大江氏自身を指すと思われる。
「《私は十七歳の時、創元選書『ポオ詩集』でこの詩を発見し(実在する、私にとってはまさにそのような少女に会うことがなかったとはいわない)、占領軍のアメリカ文化センターの図書室で原詩を写した。日夏耿之介訳は次のようである。「わたの水阿(みさき)のうらかげや/二なくめでしれいつくしぶ/アナベル・リイとわが身こそ/もとよりともにうなゐなれど/帝郷羽衣の天人だも/ものうらやみのたねなりかし。》」
この文章を読んで、とりあえず二つのことが気になった。先ず、この小説で重要な役回りを演じるサクラのことを言ってると思われる( )の中の文章の、まさに翻訳調の、というより教室英語の直訳調(?)の日本語である。少しできる生徒なら、「私にとっては、まさに実在すると思われる少女」とでも訳すのであろうが、大江氏にかかると、その教室直訳調までが日本語表現の新しい可能性のように見えてくるのは、もしかしてこのノーベル賞作家に対する過剰評価か?
もう一つ気になるのは、日夏耿之介の恐ろしいまでの擬古調の訳文である。題名にとられた「臈たし」という、恥ずかしながら私にははじめてお目にかかる形容詞、もそうだが(ちなみに優雅で美しい、という意味らしいが)一読しただけでは意味がとれない。「帝郷(ていきょう)」など平凡社の『大辭典』を引いてやっと見つかった。「天帝の都」のことらしい。それでもよく意味がとれない。それで我が「貞房文庫」にあった『ポオ 詩と詩論』(創元推理文庫、1979年)の助けを借りることにした。推理文庫だからといって馬鹿にしてもらっては困る。福永武彦の信用のおける訳詩である。それはこうなっている。
「彼女は子供だった、私は子供だった、/海のほとりのこの王国で/それでも私らは愛し合った、愛よりももっと大きな愛で――/私と、そして私のアナベル・リイとは――/天に住む翼の生えた熾天使(してんし)たちも私らから/偸みたくなるほどの愛をもって。」
これが正しい訳文だとすると、日夏耿之介の訳文では「二なくめでしれいつくしぶ」は誤植ではないか。つまり「めでしれ」の「れ」は不要ではいか。単行本の方ではどうなっているか楽しみである。
ともあれ小説の読み方としては邪道かも知れないが、大いなる読書人・大江健三郎の小説は、小説の中に取り込まれた様々な引用を自ら追跡する楽しみを読者に与えてくれる。ポオの詩の追跡はひとまずここまでとして、次は、とうとう手に入った『ハンガリー詩文学全集』の中にペテーフィのことを探ってみよう。
※追記 うっかり忘れるところだったが、題名の後半部「総毛立ちつ身まかりつ」はどういう意味だろう。福永訳では「雲間を吹きおろす一陣の風が凍らせて/私の美しいアナベル・リイを殺したのは」という箇所だと思うが、なぜ「総毛立ちつ」となるのか。原詩が手もとにないので確かめようがないが、作者は小説のどこかでそれついて説明しているのかどうか。もしもこれが日夏耿之介の誤訳だとしたら、一つの誤訳から一つの小説が誕生する、という実に文学的な(?)事件なのだが。