最近、どういうわけか「末期の眼」という言葉がしきりに脳裏をかけめぐった。どういうわけか? いや、きっかけははっきりしている。自分たち夫婦の若い時の往復書簡を『峠を越えて』という本にして、いろんな人に献呈するうち、いつかしかその言葉が頭から離れなくなってしまったのだ。つまり死後他人によって公表されるならいざ知らず、二人ともまだ生きているのに、厚かましくも自ら私的書簡を本にするという、考えてみれば奇妙な行為の説明をなんとかしなければ、という強迫観念じみた想念が渦巻いていたからである。
そんなとき心優しい友人■氏が「田宮虎彦の『愛のかたみ』以来の感動」と評してくれた。で、さっそく古書店から取り寄せてぱらぱらとページをめくってみたが、どうも夫人の死後まとめられたものらしい。いやいやそんな偉い人の例と比較するのは愚かというもの。
ただこうは言える。もし妻が認知症になっていなければ、私家本とはいえ本にすることはなかったであろう、と。いや、本当にそうかな。確かに、妻にとってこの本は一種の「前倒しの遺書」だと、ときに苦し紛れに言ってみたりなどしたが、しかし心の中では自分なりに出版の意味は漠然とながら納得していた。ただそれを説明するとなると、かなり難しい。「末期の眼」はそのための一つの言い訳として登場した。
芥川龍之介は自殺(1927年7月24日)する前、ある友人に宛てた遺書の中で「自然はこういう僕にはいつもよりいっそう美しい」と言い、「自然の美しいのは僕の末期の眼に映るからである」と書いたことは有名である。この時、芥川は三十五才、そして芥川のこの言葉に触れて、芥川の死後六年目の一九三三年、川端康成は「末期の眼」という評論を書く。故意か偶然かは知らないが、川端自身もそのとき数え年三十五才であった。
私自身、どこからその言葉を見つけたのかは覚えていないが、おそらくその原点は芥川に違いない。ただその言葉より前に、私自身はドストエフスキーのエピソードのことが強く印象に残り、たびたびそれに触れて発言してきた。つまり政府転覆の嫌疑を受けてシベリアに流刑となり、一度は死刑台に上りながら突然の特赦によって九死に一生を得たというあの有名なエピソードである。その時のことは後に小説『白痴』の中で登場人物の口を借りて詳しく語られる。そのときも、死刑囚の眼に最後の風景がどれほど新鮮かつ美しく映じたことか。
ちょっと待て、それと『峠を越えて』刊行とどんな関係がある?やはり説明は難しい。ではこう言ったらどうか。いつのころからか、私は人生を逆算するようになった、と。それは四十代後半になったころから、とも言えるが、更にはっきりと意識しだしたのは、妻の認知症発症に日々立ち会いはじめたころからだと思う。それは芥川やドストエフスキーのような劇的かつ急激な認識の変化ではもちろんない。要するに物事の価値判断に変化が生じたこと、もっとはっきり言えば、残された(限られた)時間の中でやるべきことの順序がおのずと決まってきたことであろう。
予想通り、これでは「説明」のとば口にも立っていない。頭も混乱してきたので、今晩はここまでとする。ただ誤解がないように(だれも誤解などしないっつーの)断っておくが、「末期の眼」を語った芥川も、そしてそれに敏感に反応した川端もともに自殺する(前者は服毒、後者はガス)が、私自身は「百一回目のプロポーズ」(といって私は観ていない)の武田鉄矢のように「私は死にましぇーん」からご安心のほどを。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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