父の日の「縁切り」式

いつもなら父の日に贈り物をもらうことなどめったにないのだが、今年は珍しくささやかな(とこちらで言っちゃいけないけど)贈り物をもらった。ちょうど母の日には中国の実家に戻っていて祝うことが出来なかったその埋め合わせ(?)でもあろうか、息子の嫁からもらったのだ。毎年妻が子供たちから祝ってもらうのを横目で見ているだけだったが、やっぱりうれしい(といって、けっして来年の催促をしているわけではない)。それはともかく、父の日で思い出す悲しいできごとが一つある。
 それは1997年(平成9年)六月、庭のアジサイが咲き始めた雨もよいの第三日曜日のことである。その年の三月末、そのころ勤めていた東京純心女子大でながらく一緒に仕事をした元学生課職員のNさんが、半年あまりの闘病生活の末、亡くなられた。葬儀には、現役の偉い教授や役職者の葬儀もかなわないほどの、たくさんの卒業生や在校生が参列した。就職活動の学生のために休日・日曜返上など当たり前のように献身的に働いてきた彼の遺徳を慕っての自然な流れであった。
 その前年、事実上は存在しない定年(なぜなら当てはめられる人、そうでない人の基準はいっさい明かされない制度だったから)で職を辞さなければならなかった彼に、まもなく追い討ちをかけるように肺ガンが発見された。余命半年という診断である。しかし病院に見舞うたびに元気をもらったのは私の方だった。だがガンとの死闘空しく、病室の窓から遠く満開の桜が見える三月末、とうとう帰らぬ人となってしまった。
 彼の入院のために家計が苦しくなり、奥さんは新宿のホテルでベッド・メーキングのアルバイトをしているとの噂を聞いていた。それで葬儀の準備の折だったと思うが、妻と親しかった上層部のシスターに、断られてもともという気持で、なにか学園の清掃のような仕事を未亡人のために考えてもらえないだろうか、ともちかけたのである。ところが案に相違して、それなら大いに可能性があります、との力強い返事をいただいた。
 しかしその後それに関して一切の連絡がないまま時間が過ぎていった。ローンの支払いが滞るようになったので遺族は自宅を手放し、市営住宅の方に転居したのはその頃だったか。そして六月の下旬、とつぜん学園の方から、今度の父の日、ご遺族と私たち夫婦を招いてミサを上げたい旨の連絡が入った。そして寒々としたミサのあと、どこの部屋だったか(教室?)記憶が飛んでいるが、出前の寿司を出され、型通りの挨拶のあと学園を後にした。遺族はひたすら恐縮していた。
 信者でもない遺族のために父の日に死者ミサ、そして寿司の供応? 坂道を下りながら、その不思議な供宴の意味をとつおいつ考えていた私の頭にとつじょひらめくものがあった。そしてそれは、口が裂けても遺族には伝えられないものであった。つまりその日のミサならびに寿司の供応は、ていのいい「縁切り」の式だったのである。つまり以後、学園と遺族はいっさいの関係はございません、あとは時おりのミサで、「学園の恩人」という総称の中にあなた方の夫もしくは父親を加えさせていただくだけの関係です、との暗黙のメッセージだったのである。
 爾来、「死者のための祈り」とか「恩人のための祈り」など、死者をひたすら「祭り上げる」祈りに対して、決定的に疑ってかかることにした。「祈る」だけでなく「行う」ことを伴わぬインチキ祈りなど、犬にでも喰われてしまえ!と思っている。
 10年以上も前のことをなにを今さら、と思われるかも知れない。十年は一応の「時効」の年月、当事者はだれとだれであったかなど生々しい詮索などかんたんにはできない年月。
 で、それとはちょっと矛盾する言い方ではあるが、だからこそあの「事実」そのものを決して忘却の彼方に消えさせてなるものか、という強い憤りの思いで、ここにしっかり記録したくなったのである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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