八月一日(土)曇り
二時過ぎ、ベッドの傍でうとうとしていたら、いつも明るい声で美子に話しかけてくれる若い看護師が、体温計を見ながらこう言っている。「看護師さんの仕事は大変ね、なんて言ってくれるの、ありがとう。そうでもないのよ、大丈夫。えっ髪の毛切ったの気づいてくれたの、ありがとう。」
ショックである。最近、妻の言うことはほとんど理解できなくなっていた。こちらの言うことは、なんとか分かるときと、全く分からないときとが入り混じるが、彼女の言うことはほとんど理解できないと思い込んでいた。だからいつも「大丈夫、大丈夫」を繰り返している。まるでお笑いの小島よしおのギャグみたいに。
彼女が長い独り言を言っているときがある。たとえば今である。時に天井を指さしたり、「それなのに」とか「ほんとに」とかときおり聞き取れる言葉をはさんで悲憤慷慨の口調で弁じ立てている。とうぜん彼女なりに意味のあることを話しているのであろうが、私にはてんで理解できない。それなのにあの看護師は瞬時に妻の言うことを理解したのだ。ここは内科ではなく外科病棟なのだから、あの看護師が認知症患者の経験が豊かだとは思えないのだが。いつか機会があったら奥義を伝授してもらいたいものだ。
ところで昨夜六時に主治医との面談で手術の日程が決まった。来週火曜の午後である。五時間くらいかかる大手術らしい。「手術同意書」にサインした。そこにはこう書かれている。
- 病名 第12胸椎破裂骨折
- 手術及び手術の必要性…上記による脊椎の圧迫あり、また同部の不安定性より疼痛と両下肢の麻痺を起しているため、手術による神経の除圧と椎体の再建術を必要とする。
- 手術の危険及び起こりうる合併症等…全身麻酔の危険性、内科的合併症、術後の感染症、大血管の損傷による出血などの可能性がある。
- その他留意点…輸血を必要とする可能性あり。
手術の危険性についての説明などを読むと空恐ろしくなるが、ここは執刀医を信頼してすべてをまかせるしかない。ふと生殺与奪の権という言葉を思い出した。医者という職業はげにおそろしきものなり、とりわけ外科医は。