病室から(その一)手術同意書

八月一日(土)曇り
 二時過ぎ、ベッドの傍でうとうとしていたら、いつも明るい声で美子に話しかけてくれる若い看護師が、体温計を見ながらこう言っている。「看護師さんの仕事は大変ね、なんて言ってくれるの、ありがとう。そうでもないのよ、大丈夫。えっ髪の毛切ったの気づいてくれたの、ありがとう。」
 ショックである。最近、妻の言うことはほとんど理解できなくなっていた。こちらの言うことは、なんとか分かるときと、全く分からないときとが入り混じるが、彼女の言うことはほとんど理解できないと思い込んでいた。だからいつも「大丈夫、大丈夫」を繰り返している。まるでお笑いの小島よしおのギャグみたいに。
 彼女が長い独り言を言っているときがある。たとえば今である。時に天井を指さしたり、「それなのに」とか「ほんとに」とかときおり聞き取れる言葉をはさんで悲憤慷慨の口調で弁じ立てている。とうぜん彼女なりに意味のあることを話しているのであろうが、私にはてんで理解できない。それなのにあの看護師は瞬時に妻の言うことを理解したのだ。ここは内科ではなく外科病棟なのだから、あの看護師が認知症患者の経験が豊かだとは思えないのだが。いつか機会があったら奥義を伝授してもらいたいものだ。
 ところで昨夜六時に主治医との面談で手術の日程が決まった。来週火曜の午後である。五時間くらいかかる大手術らしい。「手術同意書」にサインした。そこにはこう書かれている。

  • 病名  第12胸椎破裂骨折
  • 手術及び手術の必要性…上記による脊椎の圧迫あり、また同部の不安定性より疼痛と両下肢の麻痺を起しているため、手術による神経の除圧と椎体の再建術を必要とする。
  • 手術の危険及び起こりうる合併症等…全身麻酔の危険性、内科的合併症、術後の感染症、大血管の損傷による出血などの可能性がある。
  • その他留意点…輸血を必要とする可能性あり。

 手術の危険性についての説明などを読むと空恐ろしくなるが、ここは執刀医を信頼してすべてをまかせるしかない。ふと生殺与奪の権という言葉を思い出した。医者という職業はげにおそろしきものなり、とりわけ外科医は。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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