病室から(その十二)

八月十二日(水)晴れ
 珍しく良い天気になりそうだ。夢を見るのは眠りが深いからかどうかは知らないが、少なくともここふた晩は夢が多かった。昨夜は久しぶりに教師時代の夢をみた。東京とここ(たぶん原町)の二重生活になって、時間割をどう調整したらいいか悩んでいる夢だった。目覚めてから、いやもう東京の方は切り上げてきたのだからこちらのことだけ考えればいいのだ、とちょっと安心し、いや教師生活そのものも終わったんだと気づいて、さらに大きな安堵感に満たされた。
 朝方、手帳に挟まれた2001年度の時間割を見つけた。つまり教師生活最後の年の時間割だ。こんな生活だったんだ、と改めての感慨があった。

 火曜 3時限 人間学(507)
 水曜 1時限 スペイン語Ⅰ(602) 2時限 スペイン語Ⅱ(602)
 木曜 3時限 早稲田(7-221)  5時限 東外大(509)
 金曜 1時限 スペイン語Ⅰ(602) 2時限 スペイン語Ⅱ(602)
    4時限 比較文化論(601) 5時限 ヨーロッパ文化研究(601)

 かっこの中の数字は教室番号のはずだが、東京純心が五階建てだったはずはないのに507、さてどんな教室だったか? ぜんぜん思い出せない。木曜は非常勤の日で、早稲田(商学部)ではスペイン語を、昼をはさんで、荒川線で外語に行きスペイン思想を、だったと思うが、記憶の中では逆の道筋、つまり外語を終えて、ちんちん電車(とは古い言い方だが)の駅までの途中、小さな中華屋さんでそそくさと昼食を済ませて早稲田に向かった記憶しか残っていない。わずか八年前のことなのに、かくも無残な記憶の崩落。まっいいか、そんなこと。
 さて八月の死者の続きである。
 堀川直(つよし) 父方の叔父。11人もいた兄弟の末っ子。堀川姓になっているのは、堀川家に婿養子に入ったからである。そもそも佐々木家は中村にあり、廃藩置県によってにわか商人になったはいいが、家業とした蝋燭屋がうまく行かず、一家は遠く北海道から名古屋まで離散してしまった。だから下から二番目の父と直叔父は幼い時から貧乏の真っただ中におかれ、父の最終学歴は相馬中学であり、母と出会ったころ、一方は女子師範出の正教員なのに父は代用教員だった。直叔父も尋常でない苦学を強いられながらも、たぶん現在の芝浦工大を出て、最後の仕事は相馬市の県職業訓練学校校長だったと思う。
 叔父の家は今も石神北長野にあり、私たちが駅前に住んでいたころ、勤めの帰りに寄っては縁側でギターを弾いてくれたりした。しかしそんなことより叔父の特技はその天性の話術だった。とりわけ苦学生時代の話は何度聞いてもそのたびに爆笑を誘うほどの傑作であり、録音していなかったのが惜しまれる。兄弟じゅうでいいばんのチビだったが、それを逆手にとって、押し出しのよさと話術で他を圧倒した。小柄なのに(だからこそ)いつもダブルの背広を着こなしていた。婿ではあったが大威張りの婿さんで、佐々木の末裔であることの誇りを人一倍感じていたのではないか。佐々木家のいとこ会をやることが夢だったが、生前は実現せず、死後、確か叔父の三回忌に合わせて松川浦の民宿を会場として遂に実現した。南は名古屋、北は北海道の恵庭から集まったいとこたちは総勢三十人を越えた。その大半は生まれて初めて出合ういとこたちだったが、直叔父にこそこの壮観を見せたかった。いとこたちの親すなわち11人の佐々木家の兄弟で生き残っていたのは川崎から参加した父のすぐ上の姉幸子伯母、そして十番目の稔の連れ合いであるわが母千代だけであった。
 宴の翌朝、六号線沿いにある先祖代々の墓に詣でたとき、これからはオリンピック並に四年ごとに集まれるものは集まろうと誓い合ったが、無念、以後いとこ会は開かれないまま今日に至っている。
 直叔父の長男■さんは数年前、原町高校を停年で退いたが、昨年から野馬追いに出陣している。亡き直叔父の悲願を胸に、堀川家のみならず佐々木家の代表としても出陣してくれているはずである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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