病室から(その十三)義父源一のこと

八月十三日(木)晴れ
 さて八月の死者、最後の二人である。まず菊池重雄さん。十何年か前のいとこ会のおり、■さんが作ってくれた佐々木家の系譜によると、(とここまで書いて、その系譜を挟んだ厚手の手帳、何て言ったっけ、そうシステム手帳、を家に置いてきたので、とりあえず最後の一人に進む。)
 三本木源一さん 美子の実父で私の舅。命日の三十一日は奇しくも私の誕生日に当たった。だが本当に恥ずかしい話、彼のことを実はあまり知らないのである。息子たち、孫たちのために、残された日々、少しでも調べられるころは調べておかなければ、と思っている。しかしそのための条件は厳しい。なぜなら美子に聞くことは無理、そして彼の死後、彼の実家とはすっかり関係が切れているからである。
 そしてついでに言えば、美子の母ウメの実家とも。前者は自然消滅といった感じだが、後者はウメさんの死を親戚何軒かに知らせたのに、一切の返事が無かった。そのころは美子はまだしっかりしていたが、この結果を決然と受け止めた。つまりこちらからもきっぱり縁を切ったのである。これで天蓋孤独、私はふざけて、美子は文字通りコゼットになってしまったね、と言った。あの『あゝ無情』のコゼットである。
 親戚のこの思いもよらぬ反応は、彼女にもその理由がまったく分らないようだった。婚約時代、私も美子と一緒に訪ねて、その後しばらくの付き合いもあったのに、いつの間にか疎遠になり、そして最後は完全に縁が切れてしまった。
 でもまたいつの日か、ひょんな機会に、私たちの子孫が彼らの後裔と縁りを戻す機会があるかも知れない。そのときは、過去の一切を水に流し、新しい親戚関係を結べばいい。それこそすべて恩讐の彼方に、である。
 いつの間にか話は家庭の恥をさらすことになった。しかし私たち夫婦にとって、正直なところ恥ずべきことはなにも無いのである。つまり世間の尺度からは恥ずかしいことかも知れないが、私(たちと言うべき、なぜならこの点に関して美子は完全に私と同意見であったから)の最終的な基準あるいは物の考え方の基本からすれば、あらゆる事実は、それが真実のものであるかぎり、いっさい恥ずかしいとは思わないからである。人間関係も然り。思わぬ経緯をたどって、縁が切れたり不仲になったりしても、たがいに悪意がなく、己れに真っ正直であったなら、時の経過とともに、また縁りを戻せばいい。いや無理やりそうするというより、自然の流れの中の自然の修復にまかせたらいいと思う。現に私自身、それもごく最近、一時は互いに絶交したと思われた友人と縁りを戻した。いやむしろ絶交以前よりさらに親密に付き合うようになった。
 いや、そんなことより源一さんのことである。生前の彼の最後の仕事は、福島市の中合という百貨店の警備の仕事だったと思う。もちろんそれは退職後の臨時雇いのような仕事だが、さてそれ以前は? 美子にも詳しく聞いていないが警察官であったことは確かである。戦後、共産党員を見張っていたということを本人よりちらっと聞いた記憶があるから、思想取締り(?)の刑事でもあったのだろうか。
 さて戦中である。陸軍の少尉か中尉で、朝鮮に出兵したのではなかったか。ウメさんも一時朝鮮で生活したはずだ。軍馬に乗った勇ましい写真がアルバムに残っている。そういえばかなり分厚いアルバムに義父と義母の写真が残っているが、もはや美子からいろいろ聞き出すこともできなくなってしまった。そう考えると、なぜもっと美子の生い立ちやら体験を聞いておかなかったのだろう、と悔やまれてならない。
 コゼットは小さい時、家業の宿屋(おもに母親と祖母が切りまわしていた)の手伝いをさせられていました。お客さんが着くと、部屋に行き、お食事にしますか、それともお風呂にします?、と聞くのでした。そして近くの魚屋さんにお刺身を買いに走るのが日課でした。ときどきお客さんから、あのおかみさんはお嬢ちゃんの本当のお母さんなの?と聞かれることもありました。(なぜか涙が出てきて止まりません。今日はここでやめます。)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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