さてブライトンを舞台とする二つの映画と一つの小説の三題噺の最後を飾りますのはグレアム・グリーンの小説『ブライトン・ロック』であります。とかなんとか調子よく始めましたが、実はこの小説まだ読んでおりません。原著も(まだ見つからず)訳本も持っているのに、読む時間というより、その気力がいまひとつ出てこないまま今晩を迎えてしまいました。これじゃ羊頭狗肉もいいところ、完全に腰砕けです。でもお百度参り的な意地がありますので、このまま最後の噺に入ります。
グリーンの小説、一時期は熱中したものでした。『情事の終わり』、『権力と栄光』、『事件の核心』、そして原作は読んでませんが映画化された『第三の男』や『落ちた偶像』は何度も観ました。『キホーテ神父』(1982年)の原著や『ハバナの男』のスペイン語訳なども読まれる順番を待って、はて何年になるでしょう。それなのに先日も話したとおり、わが文庫の蔵書にと、早川書房版の『全集』のいくつかを買い足したのです。この際、速読術でも身に着けない限り、死ぬまで読みきれない本があと何十冊、いや何百冊あることでしょう。
いつもの愚痴はこの辺で止めて、『ブライトン・ロック』に話を戻します。グリーンが自作をノヴェルとエンターテインメントに分けたことは有名ですが、実はこの『ブライトン・ロック』はその両方のレッテルを持つ唯一の作品ということです。だからこれをグリーンの最高傑作と評価する人もいるそうです。
「おれは殺されようとしている―そのことをヘイルは、ブライトンに来て三時間と経たないうちに知った」。これが書き出しの文章で、グリーン小説特有の緊迫した描写に読者は引きつけられます。とはいえ、今の私には話の中に入っていくだけの気持ちの余裕がありません。で、ヘイルと一緒に、しばらくパレス桟橋で人ごみを眺めることで我慢します。そうだ、あそこの屋台で名物のロックを売ってますよ。
そう、題名のブライトン・ロックは、名物の飴のことなのです。ふつう岩などを意味するロックは、イギリスではカラフルな棒飴をも意味しています。特にここブライトンのロックは、どこで折ってもブライトンの字が出てくるので有名らしい。要するに金太郎飴でんな。
なぜグリーンは飴の名前を題名に選んだのか。気になって、先ほどからぱらぱらとページをめくっているのですが、そんなに都合よく見つかるはずもありません。やっぱ読まなきゃなりませんかね。どなたか教えてくださるなら、その手間ははぶけるのですが。
噺の輪をなんとか最初の噺に繋げようとして、今いいことを思い出しました。『モナリザ』のジョージが、露店でおどけたサン・グラスを買いましたね。そのとき、この町に以前住んだことのあるシモーヌに、ブライトンの名所を案内してくれ、そして名物のブライトン・ロックを買ってくれよ、と駄々をこねます。さあ、これで何とかつながりました。日付が変わるまであと五分になりました。今日はここまで、おあとがよろしいようで……
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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