1989年のオーストラリア・イギリス合作映画『ファーザー』を、例によって、飛び飛びに再見した。ツァイチェン?いやさよならしたのではなく、ふたたびみたのである。以前見たのはいつだったか、その時も感銘を受けたが、今回も最後のあたりをちらちら見ただけだが、いろんなことを考えさせられた。重い主題の映画だ。
元ナチスの将校で子供を含むユダヤ人たちを殺戮した暗い過去を持ちながら、終戦時に自殺した同僚の名前を騙ってオーストラリアに移住、その地で結婚し、今は娘夫婦と二人の孫たちと幸福に生活している男がいた。しかし幼いときに彼に家族を虐殺された女性に偶然見つかり、告発される。しかし法廷でその将校であるとの決定的な証拠がないまま無罪判決が出された夜、彼の家に忍び込んだそのユダヤ人女性に、娘夫婦のいる前で抗議のピストル自殺をされてしまう。
激しく真実を追及する娘に、あれは戦争時の不可抗力の行為だったと初めて認めそして強弁する父親を娘はもはや許すことはできない。同居を拒否された老父は、一人生きていくために遠くへ旅立っていく。何も知らない孫たちのとまどいと、そして心を鬼にしてそれに耐える娘の姿が痛ましい。
ファーザーを演じたのはマックス・フォン・シドー。名監督ベルイマンの『野いちご』『処女の泉』などで存在感のある俳優として開花、その後スウェーデンからハリウッドに移って『エクソシスト』『コンドル』『ハンナとその姉妹』など多くの映画に出演した。アメリカ人俳優にはない独特の味を出す名優で、『コンドル』での殺し屋は忘れがたい。
重い主題といったわけは、これは遠いヨーロッパでのナチの犯罪だと片付けられない問題をわれわれに突きつけているからだ。以前どこかで書いた記憶があるが、いまも日本中のどこかに、戦時中、東アジアで、とりわけ中国で、ナチに勝るとも劣らない悪行を犯したことを悪夢の中で思い起こし、脂汗とともに目覚める「善良で孫に優しい」じっちゃんが何人いることか。
一方には、戦争犯罪を忘れず、許さず、執拗に追求する人たち、そして他方、あれはすべて戦争中に起こったいわば悪夢のようなもの、過ぎ去ったことは早く忘れてしまおうと思う人たち。罪と罰に厳しく愛憎の波が激しく上下する生き方を評価しながらも、人間みな不完全、もう少し穏やかに行き(生き)たいもの、と思わないでもない自分がいることを否定することはできない。しかしそんなあやふやな姿勢なら、個人レベルでは歯止めが利かず、集団として、「お国のためなら」致し方ないという形で、またいつかあの愚行を犯してしまう危険はいつも残っている。
たとえどんな状況にあろうとも、たとえどんな理由があろうとも、他者の、そして他国の正当な権利や生命を侵害することを自分にも他人にも絶対に許さない強い人間であり続けたい。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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