文学の森

一時期ほど熱心ではないが、今でもときおりアマゾンの森の中で、1円の掘り出し物を漁ることがある。このあいだも、そんな風にして、全十五巻、別巻一冊の叢書を手に入れた(中の数冊は1円ではなく、しかしそれでも200円を出なかった)。1988年から翌年にかけて筑摩書房から出た『ちくま文学の森』である。叢書の存在を知ったのは、井上ひさし繋がりであった。つまり彼と、他の三人、安野光雅、森毅、池内紀が編者となり解説を分担している叢書である。
 「当代きっての本好き四畸人が一気に秘密の財産目録を公開」(大岡信の紹介)というのがこのシリーズの売りらしく、なるほど各巻の収録作品を見ても、その斬新さ、意外さが際立つ。ありきたりの叢書でないようだ。
 で、さっそく「貞房文庫」への登録が始まった。わが文庫のきまりでは、こういう叢書の場合、収録作家ごと個別に目録に載せていく。つまり「ちくま文学の森」全16巻として登録されるのではなく、たとえば第1巻(美しい恋の物語)なら島崎藤村から加藤道夫まで14人の作家ごとにその作品名が個別に登録されるわけだ。だからわが文庫所有の本の実数は、目録に載っているものよりかなり下回る。
 それはともかく、初めは感心していた編集方針も、意外と手間取る作業の途中で、疲れのせいもあろう、だんだんと評価が低くなっていった。つまりこんなものを載せるんだったら、あの作家、あの作品の方がずっと面白いのに、などと不満を感じ始めたのだ。四人の編者のうちの一人は、昔ちょっと付き合いのあった人なので(出版の度に彼からもらった本は十冊を越える。いつからか送ってこなくなったが*)たぶんやっかみも混じり始めたのかも知れない。つまりこの俺だったら、もっとましな選書をしたのに、と。
 いやいや、つまらぬ競争意識は棄てよう。これはこれでなかなかいい叢書であることは間違いないのだから。でも刊行の途中で、あまりの売れ行きに味をしめたのか、つまり出版社側がです、『ちくま哲学の森』全八巻を企画したらしい。そして実際に出たようだ。さすがにそれには付き合うつもりはない。
 ついでだから不満を一つだけ言わせてもらえば、短編の名手安岡章太郎さんや、死霊たちの囁きが聞こえてくる埴谷雄高さんの作品が一作も選ばれてないことである(島尾敏雄の「島の果て」は収録されているが)。でもそれはあくまで編者の自由な裁断にまかされていたわけだから、仕方のないことではある。さて登録もあと2巻になった。ともかく終わらせないことには次に進めない。この几帳面さ、自分でも持て余している。


【息子追記】その方もすでに亡くなり、公表してもよいだろう。池内紀氏(1940-2019)である。蔵書室から離れた書棚に氏から送っていただいたご著作のコーナーがある。交流が途切れた理由を息子なりに理解している。

【息子追記2】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年3月18日記)

言及されている編者の一人は今どきの編集者や出版社にたいそう受けがよかったようですが、確かに器用な人です。それでも胡散臭いという印象をわたしはぬぐえず、岩波文庫から二種類も出ているカフカの同じ短編をめぐって、ある講座でこの人物のカフカ理解の俗物性をこき下ろしたことがありました。
そのときの講座記録はわたしのささやかなアーカイヴ(『文学の扉をひらく』海外編第四巻)に収録され、ことし秋には公刊される手はずです。

私設タテノ・アーカイヴの日本編はまだ一巻を出しただけですが、目下第二巻を準備中です。第三巻または第四巻には埴谷雄高作「虚空」をぜひ収録したいものです。ちょうど昨年講座で取り上げたばかりでした。


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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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