このごろ書名に「老」という漢字が入ったものに、なぜか眼が引き付けられる。「なぜか」などと気取った言い方をしたが、もちろん自分が老人になったからでる。先日もネットの古本屋で中村光夫の『老いの微笑』(筑摩書房、1985年)という気になるタイトルの本を見つけて、思わず注文してしまった(言うまでもなく1円本である)。
まだところどころ飛ばし読みをしただけであるが、早くも後悔し始めている。中村光夫といえば、ひところ小林秀雄と対称的(?)な批評家として、「です」調の平明な文章が特徴的な批評家として一世を風靡したと記憶している。さて『老いの微笑』には「樗牛とニーチェ」など彼の本業である批評文と表題の「老いの微笑」のもとにあつめられた思い出の記や身辺雑記、そして小説が収められている。彼が小説も書くということは知っていたが読んだことはないので、まず3編のうちの「朝飯」という25ページほどの短編を見てみた。
主人公は一人の初老(?)の男。月一度の血糖値検査のため朝食抜きで病院に行き、終わってから喫茶店やホテルで遅めの朝食をしながら、自分の生い立ちや家庭生活を思い出すという、ほとんど内容のない、味も素っ気も無い、屁のような小説(?これが小説?)である。驚いた。
ネットで調べてみると、彼が生まれたのは1911年、そして1988年に死んだとある。とするとこれらの文章が書かれたのは、彼が77歳のとき、そして死ぬ3年前ということだ。文章としてはきちんとしているので、耄碌していたわけでもあるまい。他の批評文はそれなりの内容がある文章なのであろう。しかし少なくとも、この短編に関しては、ダークグリーンの立派な布表紙の本の中身としてはあまりにもお粗末である。
他人のことは言うまい。私自身が、彼の歳まで生きたとしたら、求められてもこういうボルテージの低い文章は書くまい、と今から覚悟することだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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