今日は月に一度、近くのH歯科医院での検診に夫婦して出かける日。二人ともさしあたって治療すべきは歯はないのだが、どこか悪くなってから診てもらうより、この方が安心である。ところで、待合室で順番を待っているとき、今日の「毎日新聞」に面白い記事を見つけた。「木語」というコラムである。
三浦理一郎という四十二歳の若さで上海で客死した文献学者の話である。彼は慶応大、東洋大で中国古典学を学んだ後、上海の復旦大に留学、さらにそこの古籍整理研究所に移り、明代の出版家毛晋の研究で古典文献学の博士号を取得。帰国後は専修大や都留文科大などで非常勤講師をしながら、毎年春と秋に復旦大を訪れていたそうだ。二〇〇七年、上海を訪れた直後、突然体調を崩して不帰の人となった。葬儀のあと三浦氏の母堂は八千冊にのぼる蔵書を基金とともに復旦大へ寄贈した。蔵書は日本、香港、台湾などで収集した文献学の専門書だが、この寄贈を生かすため古籍研究所は三浦文庫を作り、同時に基金を使って双書の刊行を始めたそうだ。
四十二歳まで彼はどのようにして八千冊にも及ぶ文献を集めたのか、ちょっと想像もできない。その彼の素志を生かすべく、復旦大が三浦文庫を創設したのも嬉しいが、若い研究者たちが生前の彼の夢を引き継いだのは、もっと嬉しいニュースだ。中国古典学がどのような領域なのか、私には全く分からないが、記事によると、清の乾隆帝の勅命で編集された中国の古典全書が「四庫全書」で、三浦氏の悲願はこの全集を補完すべき「続修四庫全書総目提要」の共同研究だったそうだ。ともあれ一人の若い日本人研究者がそこまでの険路を登ろうとしたその熱意に圧倒される。文献学というものがどういうものか分からないが、三浦氏の夢を育んだ明代の出版家毛晋の研究に惹かれた。いやもっと正確に言えば「出版家」という言葉に。百科事典によれば、毛晋は明末の学者で、汲古閣と目耕楼を建てて数万巻の書を収蔵し、多くの善本古書を復刻した人らしい。
よし私も汲古閣ならぬ貞房文庫そして呑空庵を根城に、本を集めるだけでなく、パソコン、プリンター、「製本屋さん」を使って、これまで以上にこつこつと復刻本ならぬ私家本を作っていこう。同時代人には無視されようが、後代のだれかが「おや、こんな片田舎に地味だが貴重な文献を残してくれた人がいる」と言われるようになりたいものだ。そう、モノディアロゴスだけでなく、スペイン思想その他やりかけの研究を少しでも前進させてから死のう。つまり後世の誰かに役立つような、学問的な仕事を、数ページかの小冊子のかたちでもいい、残してから死にたい。さあそうなると、うかうかしてられない、いよいよもって忙しくなってくるぞ(おいおいいいのかい、そんなに張り切って)。
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年3月15日記)。
「これまで以上にこつこつと復刻本ならぬ私家本を作っていこう。同時代人には無視されようが、後代のだれかが〈おや、こんな片田舎に地味だが貴重な文献を残してくれた人がいる〉と言われるようになりたいものだ。」
このひとくだりだけでも感銘を受けずに読むことは出来ません。ますます先生への敬愛の念が募ります。