最初のすれ違い

いわきの姉から週刊誌大の茶封筒が届いた。中を見ると『井上ひさしの世界』という70ページほどの小冊子である。同封されていた手紙には何の説明もない。姉は今までもときおり「日経」の文芸欄に載った島尾敏雄や埴谷雄高、そして小川国夫などに関する、私が関心を持ちそうな記事の切抜きを送ってくれる。だが今回の図録らしいものは、どこで手に入れたのだろう。
 編集発行は仙台文学館で、発行年は平成21年3月となっている。さてどういうことか?姉の説明はなかったが、茶封筒(正確にはねずみ色)の表に印刷されていた「いわき市立草野心平記念文学館」という文字で謎が解けた。さっそくネットで検索すると、催し物案内に「夏の企画展 井上ひさし展 吉里吉里国再発見 2010年7月10日(土)―2010年9月12日(日)」と出ていた。つまり仙台文学館が昨年展示したものをそっくりいわき図書館に運んでの催しらしい。
 説明はこうなっている。「本展は、現代社会へのさまざまな問いをユーモアあふれる井上ワールドで表した小説『吉里吉里人』(1981年 新潮社)を軸に表現したもので、井上ひさしが館長をつとめた仙台文学館特別展の巡回展です。『吉里吉里人』自筆原稿や吉里吉里国再現セットなどで『吉里吉里人』の世界を紹介するとともに、自伝的作品である『四十一番の少年』『青葉繁れる』の自筆原稿、戯曲「ムサシ」原稿、NHKテレビで放映された「ひょっこりひょうたん島」の人形(複製)などを展示します」。
 改めて『井上ひさしの世界』を見てみる。冒頭の井上氏自身の挨拶文によれば、どうやら氏は、仙台文学館の創立から深くかかわっていたらしい。図録には、『吉里吉里人』関係のものを中心とする展示物の説明以外に、何人かの寄稿文が載っているが、先輩作家の大江健三郎さんの文章がとりわけ胸に響いた。
 大江氏はこう書いている。「井上ひさしは、それら得難い友人のなかでも、資質の豊かさが年来さらに豊かになるまま、その才能を運命として生き続けている(そして私が、こちら側より向こう側の人々の懐かしさに引き寄せられた、その後も)ねばり強く生き残っていてくれるはず、と期待をかける人です」。つまり大江氏は、自分が井上氏より先にあちら側に行くと思っていたらしい。
 他の寄稿者のひとり今村忠純の文章を見ていて、懐かしい名前に出会った。「さて井上ひさし少年が、ヴェイエット神父の運転するステーション・ワゴンに乗せられ、一関から東仙台のラ・サール修道会の光ヶ丘天使園に送られてきたのは一九四九年初秋…」 ヴェイエット神父!、ここ原町教会の創始者である。神父が主任神父であったのは一九五〇年五月から翌年四月までの一年間だけだが(その後四十三年の長きにわたってエベール神父が務める)、ひさし少年を車に乗せたのは原町着任半年前ということになる。このドミニコ会のカナダ人神父を介して、私はここでひさし少年と最初のすれ違いをしたことになる。(二回目はそれからしばらくして、光ヶ丘天使園の坂道で写真を撮ってもらったとき、わずか数十メートルのところに彼がいたこと、三回目はそれからさらにあと、昭和三十三年から二年間、上智大学のキャンパスでおそらく何回かはすれ違ったはず)。
 だからどうということではないが、ほぼ同時代を生きた彼は、私にとって日増しに親しい存在になりつつある。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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