ようやく涼しくなってきた。それで今日は久しぶりにばっぱさんをドライブに連れ出すことにした。どういう体の仕組みかは分からないけれど、うちのばっぱさん、車酔いもしないし、何時間乗っても疲れないという体質をしている。ドライブといっても、とりわけ行きたいところがあるわけでもなく、それでいつもの馬事公苑行きに決めた。そこに行くまでの水田は、実りの秋を迎えて、稲穂が午後の光に黄金色に照り映えて美しかった。
30分ほどのドライブを終えて施設に送り届けたのだが、その際、ばっぱさんは変なことを言う。「なんだか前と同じところみてえだ」。そう、同じところよ。でもばっぱさん、それが不思議で不思議でたまらない、といった顔つきをしている。みんなのいる広間に簡易車椅子に乗せて行っても、「あれ、同じつくりだ」などと言う。
老人にときおり見られる一時的な意識の混乱で、それなりの名前が付いているのかも知れないが、私には新鮮な驚きであった。私自身、ときおり昔見た時代劇の一場面を思い出すことがある。題名も出演者もなに一つはっきりとしない映画だが、その場面だけが頭にこびりついているのだ。それは先ず、大きな瓦屋根の上から俯瞰した町のたたずまいから始まる。時間は日差しの長さから考えると午後三時ごろか。
主人公は長い年月のあと、そこに帰ってきたのだが、親しい人は皆もう死んでしまったのか、自分を覚えてる者は一人もいない。それまでの失敗やら負い目などすべてご破算になったいま、新しい人生を始める喜びや期待が一瞬頭をよぎるが、しかしすべてを失ってしまった悲しみの方がはるかに大きく、全身が酢漬けになったような喪失感に、居ても立っていられないほどだ。まるで生まれ変わったような不思議な感覚。輪廻転生がほんとうだとしたら、これこそまさに転生そのもの。
ここでむかし見て強い印象が残っている映画『かくも長き不在』を思い出す。とうぜんわがフィルム・ライブラリーにあると思って探したが、残念ながら入っていない。何年か前、エッセイのタイトルに借用したほどなのに、録画しなかったらしい。いつものようにネットで検索すると、1960年のフランス映画、カンヌ映画祭グランプリ受賞と出てきた。パリ郊外でカフェを営む女主人公(アリダ・ヴァリ演じる)は、あるときドイツ軍に連れて行かれたまま帰ってこない夫に似た記憶喪失の浮浪者に会う。必死に彼の記憶を呼び戻そうとの彼女の努力も空しく…実は結末は覚えていない。
脚本はマルグリット・デュラス。そうだ岡田英次が出て話題になった『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)や『愛人/ラマン』(1992年)の原作者である。
ともあれ『かくも長き不在』も一種の輪廻転生劇であり、同時に変形譚であろう。一回限りの人生、というのが私の好きな言葉であり、また究極的な拠り所とも言うべき信念であるが、しかし心のどこかで、輪廻転生や変形譚に対する憧れみたいなものがあることを否定することはできない。たしか松本清張の小説に、ある犯罪者がそれまでのすべての痕跡を消して、北陸の町で暮らしているというドラマがあったが、なぜか引き付けられた。
実在の犯罪者にも、殺人を犯して逃亡の果て、遠い町で和菓子屋のお女将になりすましていた女が世間を騒がせたことがあった。その女の電話でのやりとりを、美子がそっくりに真似したりして、…たしか福田…「殺人犯」「逃亡」「和菓子屋のお女将」で調べて分かりました、「松山ホステス殺害事件」の福田和子でした。つまりその事件も、人間ドラマとしてドキドキさせられたのは、つまりはそこに一種の変形譚があったからで…
ばっぱさんのドライブから話はどんどん広がって、というか逸れていきました。この辺でやめます。せっかく涼しくなってきたのですから、次回はもう少しましなことを考えましょう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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