二つの村での惨案

一九八八年、姫田氏は熱河の承徳―灤平―古北口への調査旅行を試みる。鉄道はないので立派に舗装された道を車で走ったらしいが、この道路は日中戦争期、日本軍が承徳から北平(北京)へ進軍するために作った簡易鉄道の跡だということだ。ということは、私が「ピカレスク自叙伝」に書いた鉄道線路は、その簡易鉄道だったのだろうか。
 しかし昭和四十五年夏、つまり敗戦の情報がたぶん口伝えに灤平にも届いて、町中の日本人がまとめていっぺんにこの町から退避したときに使った汽車は、客車ではなく貨車だったのもそのためだったのか。といって、私の家族は、ばっぱさんの英断で、町を離れたのは皆が出発した翌日だった。つまりその日、灤平に残ったのは私たち家族と、たぶん残務処理の数人の日本人だけだったわけである。
 このあたりのことも、今考えると、ばっぱさんの勇気、いやむしろ無謀さに改めて舌を巻く。なぜ出発を遅らせたかというと、途中、当時内蒙古の張北にいた弟の一家と合流するためであった。つまり汽車ではなくトラックを貸し切っての逃避行となったわけだ。そのことについても「ピカレスク自叙伝」に書いておいたが、それを読んだ母や兄姉から異論が出なかったところをみると、かなり正確に思い出したようだ。
 では内蒙古の張北はどこにあるか。調べてみると、中華人民共和国河北省張家口市に位置する県と出ている。張家口?すると町中の日本人が向かった朝陽とは正反対の、しかも朝陽までの距離とそう違わないところの町? いや待て、そんなはずはない。そうだこのあたりのことをばっぱさんに聞き書きしたことを思い出した。『モノディアロゴス』の二〇〇四年五月二十八日のところだ。つまり張北は叔父たちが最初に住んだ土地で、引揚時には朝陽にいたのだ。でもそれなら皆と方向は同じはずだが。朝陽といっても叔父の家はずいぶんと郊外なので、それで皆と別行動する必要があったのだろう。
 ところで「ピカレスク自叙伝」にはトラックに乗って走り出すところまでを書いたのだが、実はその後の道中のことはまったく覚えていないのである。しかし叔父の家に着いてからのことはぼんやりと覚えていて、同じ五月二十八日の項に書いている。そして再会した二つの家族は、朝陽から錦州まで行き、そこの「日本亭」という大きな建物に集合した避難民に合流したのである。
 いやいや、今回辿ろうとしているのは、私たち四人の遺族のことではなく、灤平で死んだ父のことである。そして白状すれば、このところずっと気になっていたことがある。つまり父がかかわったという「集家工作」がどんなものなのか、そしてそこからどんな問題が派生したか、ということ。もっとはっきり言えば、父の説得して回った部落や集落がどの範囲であったのか。そしてそこの住民たちに日本軍がどのような仕打ちをしたのか、である。
 それで『もうひとつの三光作戦』の後半部、つまり陳平氏の調べ上げた「集家工作」、というより彼ならびに姫田氏の言う「無人化」政策についての調査結果を急いで調べてみた。巻末にある資料編を見てみる。するとあった!「華北における惨案 [惨劇] 統計表」が。それで一九三八年四月一日から1945年七月までのリストの中の「灤平縣」という字を大急ぎで探す。父の仕事始めは一九三九年十月だからその後は…一九四〇年までは出てこない。いいぞ。さらに見ていく。あゝ!巳んぬる哉!残念無念!一九四一年に惨案(中国語で大規模な虐殺事件をいう)が起こっていた!

惨案発生日発生地点被殺害者数被焼却家屋数
同年十月二十四日灤平縣快活峪村13280
同年十月三十日灤平縣七道河天橋溝3217

 正確に数えたわけではないが発生件数およそ三百以上の中の二件だが、起こったことは事実らしい。十月といえば灤平から博多まで(?)家族を迎えに来た父と共に灤平にたどり着き、ようやく一家全員が住み始めて四ヶ月後あたりか。もちろん惨案に直接関わったわけではない。いやその前にその二つの村が父の担当区域だったかどうかも知らない。しかしいずれにせよ、その惨案のニュースは父にも届いたはず。父の悲憤慷慨の中身は何か?満州帝国そのものの真相が分かりかけてきたからか?
 自分が中国人の同僚と共に苦心して説得して回ったその後に、日本軍が乗り込んで行って、武力で農民たちを追い出しにかかり、それに抵抗する者たちを無残にも殺し、彼らの家屋を破壊したことを知っての悲憤であり無念さではなかったか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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