実は約束の期限がある仕事があって(そのリミットは来月の十五日)、とりかかるのは明日一日から、と自分で決めた。だからその前は自由にしようと決めた(本当はその十五日までだって、一日中かかりっきりになるわけでもないし、もしやろうと思えば二日ぐらいで片をつけれる程度の量だから、自由に過ごそうと思えばじゅうぶん過ごせるのだけれど)。
それでたまたま眼に入った写真をきっかけにして、その自由な散策を始めようと思った。先日ここでも触れたように、私のパソコンの画面には、仕事をしないで放っておくと、内蔵した写真を五、六秒間隔で勝手に次々と何の脈絡もなく見せてくれる。で、さてどこに歩き出そうか、と思ったとたん、もうはるか昔の写真を突然見せてくれたのである。もちろんすぐ画面が変わってしまったのだが、その写真を探すために、古いアルバムを引っぱり出してきた。あった、一九六五年十一月九日、吉本隆明氏宅で取られた写真である。居間のカーテンの前に幼い二人のお嬢さんと吉本夫妻、そして訪問客である島尾敏雄さんとマヤちゃん、そしてローマン・カラー姿の私が写っている。
名瀬からマヤちゃんを連れて上京した島尾夫妻に連れられて、確か当時田端にあった吉本家を訪ねたときの写真で、撮ったのはミホさんである。吉本氏の前に座っているのは五、六歳のお姉さん、つまり後の漫画家ハルノ宵子さん、そし吉本夫人の膝の上に乗っているのが、後の小説家よしもとばななさんである。年譜を見ると一九六四年七月二十四日生まれとあるから、このとき一歳三ヶ月ちょっとだろうか。
以上が前振り、と書いて心配になったので辞書を引いてみると、「前振り」なんて言葉は無さそうだ。ということはテレビかなんかの業界用語なんだろうか。それなら言い直して、「前置き」。ともかくこの際、吉本(現在のペンネームではよしもと)ばななの本を少し読んでみようということになったのだ。ちょうど手許にある今年の「新潮」二月号に三百枚一挙掲載の「アナザー・ワールド 王国その4」があったので読み始めた。意外と読める。
実は彼女の名を一躍有名にした『キッチン』など、すでに文庫本が5冊ほど書棚に眠っているのである。何回か読みかけたのだが、途中で投げ出したものばかりで、一冊もまともには読んでこなかったのである。なんと言ったら良いのか、ペパーミント味のガムみたいな文章、私の言い方によれば「ツルンとした文章」にどうしてもついて行けなかったのである。
それがこの「アナザー・ワールド」は大して抵抗感なく読めたのだ。それなら初期作品から読んでみようか、と下の部屋の本棚を探したのだが、『キッチン』が見つからない。それで今さっき、短編集『白河夜船』に収録されているいちばん短い「ある体験」を読み通してみた。ツルンとした感じはそのままだが、しかし前のように拒否反応無しに読むことができた。
数々の受賞、新聞などで報じられる海外での高い評価、などが頭にあって、それで無理に分かろうとしたきらいが無いといったら嘘になる(とはまた嫌―な言い方だが)が、こういう感性、こういう物事の捉え方もありかな?とは思えるようになってきたのであろう。似たような感想は、村上春樹についても言える。実は今日、よしもとばななを読む前に、村上の『海辺のカフカ』を、それこそぱらぱらと読んでみたのである。そして新しい事実にぶつかった。つまりかなり際どい性描写がところどころにあることだ。
だがいずれもさらりと書かれている。つまりまるで静物画のように、淡々と描かれている。エロ本のような、扇情的な書き方がされていないのだ。あゝこれも時代かなー、とは思う。実際に性交の場面などが描かれたりしているのだが、矛盾した言い方になるが、まるでセックスレスの男女の絡み合いみたいな感じがするのだ。
よしもとばななや村上春樹のファンに、分かりもしないで勝手なこと言うな、と叱られそうだが、両者に共通するいくつかの特徴がある。一つは、良い意味でも悪い意味でも、要するにツルンとした感触の文体で書かれていること、そしてとうぜん誤解される評語ではあるが、ともにアモラルな世界を描いているということである。インモラルな世界なら、ある場合には嫌悪しながら、またある場合にはどうしようもなく惹かれる世界だが、アモラルな世界はどこにもつかみどころが無い、ツルンとした世界なのだ。
ともかく最初の接触である。読んでいくうち、また別様の感想が出てくるかも知れない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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