今日こそなんとか『キッチン』を探そうと思いながら、ネット古本屋から送られてきたばかりの『ノルウェイの森』を手に取ってしまった。運の尽き、なんてこんな場合は言わないのか。ともかく上巻はまっ赤、下巻は緑、の装丁が気になる。さっそくカヴァーを剥ぎ、上巻の裏表紙にカッターを入れて切り落とす。次に下巻のおもて表紙(というのかな?)も同じく切り落とす。二冊を合わせて背のところにG17速乾強力ボンドをつけ、あらかじめ用意していた細長い布を背にかぶせる。つまり背だけ布で、あとは元のままに残したのだ。
そしてずしりと重い『ノルウェイの森』一巻本を読み始める。第一章を読み、第二章へと進む。昨夜思いつきで言ったことが、当たらずと雖(いえど)も遠からぬことを確認する。そして死んだ恋人のことを思い出す主人公自身が意味深長な言葉を使っている箇所に出くわす。「僕の体の中に記憶の辺土(リンボ)とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか」
リンボ(limbo)とは、洗礼を受けずに死んだ幼児などの霊魂が住むという場所を言う。地獄に落ちるほどの罪を犯さず、さりとて天国に行けるほどの善徳を積んでいない者がそこで罪を償う「煉獄」とは違う。リンボに行った魂がいつ救われるのか、そのあたりのことは良くは知らないけれど、いずれにせよキリスト教神学が苦し紛れに(?)設定した仮想の場所である。これまた良くは知らないけれど、仏教ではたぶん水子などは供養することによって極楽浄土に行けると思うが、リンボの幼い魂たちはどうなるのか。
ともかく村上春樹の世界の住人たちについて、どこかで、スマートである、などといった覚えがあるが、不思議な優しさに満ちている。私にはそれが、まるでリンボに住む魂だからこその優しさに思えるのだ。あるいは一時期よく使われた「モラトリアム人間」のように見える。つまりアイデンティティ<自我同一性>の確立を先送りにする心理的猶予期間の人間に。そんな村上文学評はだれも言わないかも知れないが、私には読むたびにそう感じるのである。もちろんこの評語は、必ずしも否定的な意味合いのみで使っているのではない。彼の文学が国籍や文化の違いを飛び越えて、世界中の多くの若者たちから強く支持されている理由の一端は、以上のことと無関係ではないと思っている。つまり人間のもっとも繊細でやわらかな部分での共感を呼ぶからではなかろうか。
いま話題になっている彼の最新作『1Q84』にまで手を伸ばすことは今のところ考えていないが、『羊をめぐる冒険』、『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥のクロニクル』そして『海辺のカフカ』と、いつの間にか彼の代表作が手元にある。『羊をめぐる冒険』以外は、文字通りの飛ばし読みだから、ゆっくり読んだらまたその印象が変わるかも知れない。さてじっくり読み直そうか、それとも…。
とここまで書いてきたが、本当は、『ノルウェイの森』の第二章に出てくる陸軍中野学校にまつわる私自身の思い出を書こうと思っていたのに、ついまた、昨日の話の続きを書いてしまった。それは別の機会にしよう。
というわけで、本当は今日から締め切りのある仕事を始めるはずだったが、いっさい手をつけないまま一日が過ぎてしまった。これはもう昔からの癖みたいなもので、宿題とか原稿書きとか、ともかく締め切りのあるものを前にすると、それとはまったく関係のないことが無性にしたくなってしまうのである。どうも死ぬまで直らないらしい。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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