「…お届けさせていただきました瑠璃玉は先生も御承知のように古来東の国では幸を招く霊石として愛されて来ましたが、西の国では絵具の青色の原石で、マリア様のマントの青色も、空や海の青も、このラピス・ラズリーから生まれたもので……と申して主人はこの石が好きで外国に出た時は時折求めて来てくれました。
日頃先生をお支えしながらご活躍の奥様に幸を願って故人の記念として、お手持ちの数のうちに加えて頂ければ幸いでございます。何卒お受け下さいませ。」
以上のお手紙と一緒に、60個のラピスラズリを連ねたネックレスと、同じく大粒のラピスラズリのペンダントとイヤリングが神吉先生の奥様から送られきたのは、先生の亡くなられてから二ヵ月後の六月下旬のことであった。ラピスラズリなどという高価なものを持ったことがなかった私どもにとって、それはまさに身分不相応の形見分けだった。
あまりに勿体なくて、実は美子の鏡台の引き出し深くにしまったままだったのだが、今日の午後、思い立って出してきてみた。奥様のお手紙にあったように、その深い青紫色と言ったらいいのか、あるいは藍青(らんせい)色と言ったらいいのか、確かにエル・グレコの聖母マリアのマント、あるいは背後に広がる空の色である。そしてその時思い出したのである。そうだ、先生の一周忌に上智大近くのスクワール麹町というところで行われた「偲ぶ会」で頂いたエル・グレコの聖母の絵(立派な額縁に入った「聖家族と聖アンナ」の中の聖母像)の背後に広がっていた空の色…それなら毎日何度もその下を通っている、なぜなら旧棟から新棟に渡る廊下の天井近くに掛けている絵だからだ!
絵の題名もさっきネットで調べたことを白状しなければならない。先生の写真同様、一応は掛けてはいるが、ほとんど意識もしないで通り過ぎていたのだ。いやいやそんなことより、奥様の亡くなられたのがいつだったかさえ、この忘恩の徒、不肖の弟子は忘れている。あれは確か、地中海学会の駒井さんから教えてもらってはじめて知ったのだったか。幸いメールが残っていた。亡くなられたのは昨年2月26日、それを知ったときはすでに御葬儀も終わった後のことだった。先生の亡くなられたときから十三年後のことであるが、しかし奥様には先生の死後数年を経ずして長男の義也さんの死という残酷な運命を耐えての晩年であった。
メールを覚えた奥様からの時おりのお便りが、パソコンに残っている。先生に対する忘恩に、さらに奥様への忘恩を重ねてしまったのが、今更のように悔やまれる。いや悔やまれるどころではない、なんと表現しようもない慙愧の念に捕らえられてる。
さらに言うと、何か虫の知らせなのか、ここ数日、机の中にあった東方教会のイコンらしき聖母の御絵(とカトリック信者は言っていたが、今もそうか)が、誰にもらったものか不思議に思っていたのだが、さきほど、奥様からの手紙を見ていて、それが奥様からのものだったと判明したことを言わなければならない。
かくのごとく、いろんなところから先生や奥様に見守られていたのに気づかなかった鈍感で忘れっぽい私が恥ずかしい。奥様はこう書かれていた。「このイコンの《ウラジミールの聖母》は数々の奇跡によって名高いと聞いているのですが、本当の善き訪れがあらゆる場所に来てほしいと切望しております。お母上さまお変わりないですか!」
キリスト教からもマリア崇敬からも遠く離れてしまった私だが、この機会に、せめて先生ご夫妻の守護を願う意味でも、いやもっと正確に言うなら、私の心の中で先生ご夫妻の記憶がつねに鮮明に保たれ、それによって日々勇気が与えられますように、という意味で、明日から、いや今晩から、先生のお写真、エル・グレコの聖母像をしっかり見上げよう。そして偶然かも知れないが、奥様から頂いたラピスラズリの誕生月に生まれた美子も、明日からせめてペンダントだけでも肌身離さず付けさせていただこう。