先日、ペレス・デ・アヤラの小説について書きながら、あえて触れなかったことがある。それはJ. ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』のことである。以前、というより大昔、この小説を読んだとき、これはイエズス会経営の学校の話だと確信したまま、確かめることもしないでいたのだったが、今日思い立って調べてみた。やはりそうだった。年譜を見ると、ジョイス自身、まず六歳のとき、イエズス会経営のクロンゴウズ校に入るも、九歳のとき、一家の経済事情のため退学して2年間家で遊んだ、とある。
十一歳のとき、今度もやはりイエズス会経営のベルヴェデーレ校の三年級に編入、十六歳まで学ぶ。このときの経験が後年、小説の骨格を形作ることになる。このベルヴェデーレ・カレッジはアイルランドの首都ダブリンにある全寮制の男子校で、1841年に創建された中等教育学校。学校のモットーは Per Vias Rectas 「まっすぐに行け」、および「他者の為に」らしい。作中に登場する英語教師はジョイス自身の教官であったジョージ・デンプシーがモデルということである。
ジョイスが『若き日の…』を書いたのは二十三歳ごろからだが、1908年、二十六歳の時、膨大な量に膨れあがっていた原稿を、発作的にストーブに投げ込んだが、妻の手によって救い出されたとある。そして二十九歳のとき、この原稿をいわば踏み台にして、全く新しい構想の下に、今日残っている形の決定稿を得たらしい。ただし出版年は遅れて1916年、アメリカの出版社からであった。
となると、アヤラの小説が出版されたのが1910年であるから、出版年はアヤラの方が六年早いとしても、いわば反イエズス会的な二つの小説がほぼ同時期に書かれたことになる。アヤラの小説が出版当時は激しい論争を巻き起こした割には、次第に忘れ去られたのに対し、ジョイスの小説は英米のみならず世界の多くの読者を獲得する。読み直してみないと自信を持って主張はできないが、アヤラの小説がそれだけ劣っているとは思えない。アヤラ以外にもガルドースやクラリンなど19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したスペインの作家たちも、いつか正当な評価がなされる時が来ることを願う。
それはともかく、ジョイスはこの小説を書くことによって、神に仕える道から離反していった己が過去の総決算をしたわけだが、フランス生れのアメリカの宗教作家トマス・マートン(1915-1968)は、このジョイスの小説の主人公スティーヴンの足跡を逆にたどることによってカトリックの信仰を得たそうだ。つまりそれだけジョイスの小説は、信仰から離反にいたる道筋を正確に描いたということだろう。
そんな大それた、というか辛気臭い道筋をたどり直すつもりは無いが、それにしてもジョイスとアヤラの小説は再読し比較してみる価値はありそうだ。
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年3月19日記)。
先生と語り合う機会に恵まれなかった話題がいくつもありますが、ジョイスのこともそうです。このブログを一読して、ああ、と思いました。マートンについてはよく知りませんが、ジョイスについて、なかんずく『若き日の芸術家の肖像』については、懐かしいような、面映ゆいような、後ろめたいような思い出がわたしにあります。もし先生にお伝えしていたらたぶんお笑いになったでしょう。わたしの時代、大学院受験の際に小論文を書かされることになっていました。課題はその場で告げられるまで不明でした。わたしは小癪な策を弄し、課題がなんであろうともかならず原文で十行引用しようと思い、ジョイスの自伝小説からしかるべきくだりを選び出し、試験当日まんまとそれを嵌め込んで巧妙な?エッセイを仕立てました。二日目が面接試問でした。案の定、面接担当の教授の一人からカンニングを疑われ、暗唱してみるように要求されました。すらすらと難なく口に出し、その場の他の教授たちが、ほう、やりよるのう、といった表情を浮かべるのを尻目に退出しました。合格と決まったあとで、お前のエッセイが最高点だったと聞かされ、内心してやったりと思いました。ところがいざ院生となって、必修演習の一つがジョイスをテクストにすると知って慌てました。予感は的中し、担当教授がわたしのジョイス理解の底の浅さをすぐに見抜いてしまいました。大恥をかきましたが、以後ジョイスを本腰を入れて読み直すきっかけともなりましたから、結果的には自分の勉強になりました。それから数十年後、思い立ってアイルランドに出かけ、ダブリンを始め西部のジョイス・カントリーと呼ばれるゴールウェイをくまなく旅し、ジョイスへの敬意を表して来ました。紀行を書かねばと思っていますが、まだ宿題のままになっています。