「それほど昔のことではない、その名は思い出せないが…」
「某といえるもの兄弟、いまその名を秘すも…」
二つとも有名な小説の書き出しの文章である。前者は村の名、後者は兄弟の名、についてのものという違いはあるが、小説の冒頭の言葉として、読者を小説世界に引っ張り込むための手法として効果的である。クイズではないので種明かしをすれば、前者はセルバンテスの『ドン・キホーテ』、後者は魯迅の『狂人日記』の書き出しである。
魯迅がセルバンテスの文章を意識していたかどうかは分からないが、いずれにせよ、二つの小説の導入部の類似性は明らかである。セルバンテスの場合、訳者の故牛島信明氏がわざわざ訳注で解説しているように、これを「思い出したくない」と解釈して、作者はなぜ思い出したくないのかをめぐってさまざまな議論がなされてきた経緯があるが、実はそれは伝統的な物語の形式を踏まえただけの話で、単純に「思い出せない」の意味だとことわっている。
魯迅の場合はどうか。中国の文学的伝統に則っただけのものか、それとも「秘す」ための特別なわけがあるのかどうかは分からない。中国語の全集が二階廊下の本棚にあるが、わざわざ捜してくるまでもなかろう(つまり該当個所が分かったにしても中国語が分からないのであるから。頴美に聞いてもいいが、もう寝てしまったであろうから)。
ところでスペイン語訳はどうなっているかというと、手元にある二つの訳書の一つは、 cuyo nombre no quiero reveler(明かしたくない)となっており、もう一つの方は、cuyos nombre me callaré(秘しておこう)となっている。いずれにせよ魯迅の場合、セルバンテスのときのようにその個所が問題視されてはいないのではないか。
魯迅とセルバンテスの比較ということに関しては、たしか中野美代子だったと思うが(明日確かめてみる)、『阿Q正伝』と『ドン・キホーテ』の面白い比較をしていたはずだ。つまり私の俳号(?)呑空がフランス語のドン・キホーテの頭文字の音をもじったのと似たような論を展開していたと思う。
いつものように長―い、そして言わずもがなの前置きになってしまったが、実は現在、スペイン語教室の教材に、その『狂人日記』のスペイン語訳を使い始めたのであるが、少なくとも昨晩の聴講者の反応がいまひとつ鈍いということがあって、少々落ち込んでいたところなのだ。構文としては初級スペイン語教科書の例文と難易度はさして変わらないので、それなら面白いものをと、あえて選んだのだが…まっ、授業なんてものはうまく行くときもあれば、そうでないときもあらあな、気にしない気にしない。