通りがかりに見たとき、その黒人の老婆は、舞台で歌っている歌手に舞台下から偉そうに声をかけていた。もっと声を張りな、そうそう、本当の歌手はうろうろ動くんじゃないよ。そしておひねりを渡す。彼女の回りに集まった白人の観客に、卑猥な冗談を飛ばす。この婆さん、何者?
なんだか面白そうな婆さんだな、と今度は椅子に坐ってテレビ画面を見始めた。強烈な太鼓の響きがアフリカの独特のリズムを刻んでいく。毎年二月、タンザニアのザンジバルで行なわれる音楽祭のようだ。樹木希林のナレーションがこの老婆の正体を明かしていく。キドゥデ婆さん、推定年齢九十五歳、世界最長老の歌姫。音楽祭のクライマックスにこの彼女が登場する。バイオリンやアコーディオンなど西洋の楽器と、カヌーヌ、ウードなどアラブの楽器で伴奏される物憂げなメロディー、ザンジバルの心と言われる「タアラブ」という独特な音楽をバックに彼女は歌う。ついさっきまで歯の抜けた口でタバコを吸っていたのに、野太く、荒々しく、それでいて聞くものの臓腑を鷲づかみにするような彼女の声の迫力に圧倒される。
彼女が歌った三曲のうち一曲がアラビア語で「はじまり」を意味する「アラミナドゥーラ」だ。
「おいでなさい、踊りの輪に。遠慮しないで光のもとにおいで。確かめて、あなたの自由な目で自由なザンジバルを。こんな良い土地に着いた。もう他はいらない。踊り明かそう。みんな一つになって。大枚はたいて踊りの準備はできた。大枚はたいた。だって船乗りにゃ明日はない。歌うんだよ恋人よ、眠るんじゃないよ。あなたにほんとうのことを言うわ。人を殺すのは恋。恋の病で私は眠れない。わかるでしょ? わかってちょうだい。この病から救い出して。」
九十五歳(彼女自身は百十三歳と言っている)の老婆のどこにこんなエネルギーが、こんな張りのある大声が隠されていたのか? 九十を越えてからの世界ツアー(日本にも二度来たらしい)で一躍世界の脚光を浴びた彼女は、しかしその貧しい生活スタイルを一切変えない。今でも裸足。
日本の取材班が彼女に別れを告げに公園にいる彼女を訪ねると、いつものように裸足で石のベンチに腰掛けていた。日本に帰ったら手紙を書いてよ、無事に帰ったと手紙をよこすんだよ。
彼女に比べるなら、七十一歳などまだほんのヒヨっ子。彼女の歌、彼女のしわくちゃな笑顔を見て、不思議なパワーをもらった。