唐突な女房賛歌?

今日も一日が終わる。美子を叱らないで一日を終えることができた。ありがたい。
 こちらの言うことは一切伝わらないことに業を煮やして頬を平手で叩いたこともある。しかしそれで美子が理解するはずもない。そのあとは決まって惨めになり、自己嫌悪に陥り(いやー違うな、ただただ悔しくて)、その泥沼から抜け出すのに優に30分はかかる。美子が認知症にならなかったら、いろんなことが相談できたり話せるのに、と思うことはある。結婚以来ずーっと、自分の書いたものを、真っ先に見せ、その反応を見るのが楽しみだったから。パパいいねー、とてもいいと思うよ。悪いことはめったに言わない。美子の「いいねー」で、すべてが完結した。
 今日も無事一日が終わった。寝せる前にトイレに連れて行き、そのあと洗面所で歯を磨かせる。ときどきブラシを口に入れたまま、どうしていいのか分からなくなる。手を添えて少し動かしてやる。すると思い出すのか歯ブラシを動かす。コップで水を含ませてやる。「がぶがぶしようね」と促すとがぶがぶするが、しかしたいていは、口の中の水を洗面台に吐き出させるのに時間がかかる。口の中のものを出す、ということが見えなくなる。時に洗面台の中にうまく吐き出せないことがある。そんなとき、うーんと残念に思う。でも叱っては駄目、なんで叱られたか皆目分からないのだから。居間に戻る。敷居のところでスリッパを脱がせるのにまた手間取る。ときにあきらめてそのままソファに坐らせてから、スリッパを脱がせる。視空間失認というやつだ。
 食事のときも、自分で箸やスプーンを使えなくなってから久しい。スプーンを口元まで持っていき、あーん、さあ口を開けて、と言ってもそれが脳に伝わるまでまた時間がかかる。
 たいへんだなー、ですって? イライラし腹を立てることがあっても、これ以外の生活を考えることができない。ときどきイライラしながらも、この生活に…そう間違いなく満足している。これ以外の生活を考えることができない。
 こちらが言うことがほとんど、95パーセント、は伝わらないが、でもそんなことどうってことはない。じゃまったく伝わらないか、と言えば、どうもそうではなさそうである。先日も来客に向かって、さて何について話していたのだったか、ともかく何か胸に深く感じながら熱心に話していて、ふと脇の妻の顔を見ると、なんと涙が滂沱と彼女の頬を濡らしていた。話の内容を理解していたのか。たぶんそうではなく、私自身の感動を彼女が敏感に感じ取っていたのだろう。
 なんで今夜は唐突に女房賛歌(?)を歌ってるのかだって? いいじゃない、たまには。他人から見れば、惨めな老老介護の一例でしょうが、ちっとも惨めじゃありませんぞい。彼女が可哀相ですと? いやー可哀相じゃないかも知れませんぞ。だって彼女は遠―い昔から、私の側にいるのが大好きでしたから。彼女が決して理解できないコマーシャルは、「亭主元気で留守がいい」でしたから。そして施設になんぞ入れたら、今度は私自身がどう生きていけばいいか分からなくなる。
 今はどこに行くにも一緒、朝から晩まで、最大距離3メートルでずっとくっついておりますです。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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唐突な女房賛歌? への3件のフィードバック

  1. 三宅貴夫 のコメント:

    初めてコメントします。
    震災時の東京新聞のサイトから知りました。
    震災時の原発事故による政府と東京電力の理不尽な強制に戦っておられる姿を京都から応援しています。
    私は1987年から1994年まで郡山市の病院に勤務し、妻は会津の出身ということで、浜通りも車で何度か行ったこともあり、なつかしいところです。
    それが見えない放射能で生活が根底から破壊されていることは耐えがたいことです。
    さて、妻は稀な辺縁系脳炎という病気で認知症になり、3年前から仕事を止めて介護しています。
    幸い、認知症に長くかかわってきた医師なので、比較的介護は始めやすかったのですが、病気のためとわかっていても聞いてくれない抵抗する妻を殴ったり蹴ったしたことがあります。最近はかなり自分をコントロールできるようになり、怒りがこみあげてきても、以前ならここで殴っていたと思える余裕を持てるよになりました。
    私が勝手に管理・編集する「認知症なんでもサイト」で認知症の情報発信していますが、私の介護体験記も紹介しております。
    ご覧いただければ幸いです。
    お身体を大切になさってください。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

     嬉しくまた頼もしいコメントありがとうございました。実はもうどこかで書い
    たことですが、2002年に相馬に戻ってきてから間もなく妻の異変に気づきま
    したが、一度も専門医の診断を仰ぐこともないまま今日にいたってます。お医者
    さんを前に不遜かも知れませんが、治療の方法も特効薬もない以上、じたばたし
    ないでこの事態を引き受けようと思ったわけです。今度の理不尽な原発事故に対
    してと同じように。ただ二年前の脊髄損傷のときは、専門医に全幅の信頼を寄せ
    て六時間の手術を受けさせました。正解でした。歩ければなんとか私ひとりでも
    介護できると思ったからです。もちろんこれから先のことは、特に私自身の体力
    ・健康を含めて不安が無いわけではありません。しかし今からくよくよ心配して
    もどうなるものでもない、その都度全力で立ち向かって、そのとき見つかるいち
    ばんいい道を選んでいけばいいのだ、と半ば開き直っています。
     実は今回のブログ、ちょっと余計なことを書いたかな、と心配していたのです
    が、いつものとおりSさんからのエールと、そして思いがけなく三宅さんから
    のコメントがいただけて、書いてよかったと思いますし、コメンいただけたこと
    を心から感謝しております。さっそく貴サイトにあった介護体験記全ページをプ
    リントアウトさせていただきました。これからもときどき貴サイトを訪ねるつも
    りです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

  3. 宮城奈々絵 のコメント:

    ここ何日間は、原発のメルトダウンのニュースに(以前から情報としては分かってはいたのですが…)少し心が折れていました。子供が4人いますので、親としてこの時代にどう生きていけばいいのか、また子供達は生きていけるのか、などなど何だか気持ちが揺れてしまいました。
    2日ぶりに先生のblogを読み、奥様の話に胸が熱くなりました。苦労もおありだと思いますが、大恋愛のお二人ですから、離れることなんて有り得ないのだろうな…と思いました。私も、先生と奥様のように一緒にいることが大切だと思える夫婦目指して頑張ります。
    話は変わりますが、津波後、母は姑宅に同居になったのですが、昔から折り合いの悪い仲に加え、時々の認知症の症状でかなりストレスが溜まる生活を送ってます。今まで良い関係の積み上げがないままでの同居、そして介護。私の父も先生のように、母を大切にしてくれたらいいのにな…とちょっぴり思ってしまいました。

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