サイヤの弁当

ここ数日、また美子の動作が鈍くなってきた。階段の踏み台に足が一回では持ち上がらないときがある。歩行がままならず、手で支えてやらないとすぐふらつく。前のときは体を左に傾げるようにしていたが、今度は右に傾げる。おそらくこれで左右対称になるんだろう、と楽観的に考えるようにしている。自信があるわけではない。ただじたばたしても始まらないと観念しているだけだ。だから靴を履くとき、歯を磨くとき(昨夜から一人でできなくなった)、ともかくすべての所作に、専門用語で言えば視空間失認などの症状が現れるとき、以前だったらしょっちゅういらついていたが、今はそんなことは一切なくなった。特に急いでやる仕事なんぞない。なんならここでじっくり一時間でも待ってやるよ、と優しく励ましの言葉を言い続ける余裕が出てきた。
 散歩の距離もこれまでの三分の二くらいに減らした。それで今日の散歩は夜ノ森公園の坂道を登るのはやめて、新田川川畔にした。ここいらは放射線値はどうなっているのだろう。草刈機を動かして土手の清掃をしていた三人ほどの作業員はマスクもかけないでいたから、たぶん低いのだろう。実はそんなこと気にしない、いや気にもしたくない、のだが、昨日あたりのテレビでは福島市のある小学校では、通学路周辺の線量マップを作って親たちに配布しているそうだ。その地図を見ながら、あっちの道はこちらの道より0.2マイクロシーボルト(でしたっけ、最近氣にしないようにしているので、名前さえ忘れた、あっ思い出したシーベルトだ)低いから、あちらの道を行きましょう、などとまるで迷路ゲームみたいに道を選んでいるのだろうか。
 しかし昨今では、そんな大事なことをゲームになぞ喩えようものなら、さっそくPTAの方から苦情が届くかも知れない。新聞もテレビも、こうした動きに対して批判めいた報道はいっさいできないような雰囲気になってきている。しかしどう考えたって異様な光景であることには変わりがない。他にいい方法があるのか、と言われれば特に妙案があるわけではないし、私のような考え方(覚悟を決めて、ともかく元気に生きていく)を強要するわけにもいかないのが辛い。しかしこのままだと、心理的にどんどん追い込まれていかないだろうか。生活のいろんなところに悪影響が出ているに違いない。原発被害対策をめぐっての夫婦間の不和ならまだいいとしても、今日のコメントでも言われているような震災離婚にまでいったら事態は深刻だ。家庭内のことだから表面に出てこないが、放射線そのものの被害よりも、それによって引き起こされるこうした心理的影響の方が心配だ
 このごろ通学途中の学童たちの列に車が突っ込む事故が多発しているようだから、マップに気を取られて車に注意するのを忘れないでもらいたい。放射線を浴びての罹病率より、交通事故での死傷率の方が比較にならないほど大きいのだから。
 散歩からの帰り道、サイヤという小型スーパーみたいな店に寄った。震災後かなりの期間店を閉じていたが、独り者や私たちのように老夫婦にとって、この店の再開は実にありがたいのだ。さて時間は? 午後四時五分前、そろそろいいだろう。つまりここの弁当類は、四時を過ぎると半額になるのだ。たとえば今日、298円の鮭弁当、320円のとり唐酢豚風弁当がきっちり半額になる。スーパーより安い弁当がさらに半額になるのだからありがたい。
 震災後しばらくは、というより息子たちが十和田に移ってからしばらくは、冷蔵庫に残っていたものや、支援物資を使って、夫婦二人分の食事を作っていた。慣れは恐ろしい(?)もので、炊事はいっこうに苦にならなかった。しかし四日ほど前からは、ここの弁当で済ましている。米は洗わなくてもいいし(洗うのじゃなく研ぐのが正しい)食器も洗わなくていいのはありがたい。でもやっぱ、冷たい水で研ぐ様にして炊いたご飯は弁当のごはんより数段美味しい。じゃおかずだけ買って、ご飯は家で炊こうか? いやいや百六十円出せば美味しい酢豚までついてくるお弁当はやめられない。とうぶんサイヤの弁当で生きてみよう。

創業35年の老舗食品スーパー「サイヤ」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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サイヤの弁当 への5件のフィードバック

  1. 三宅貴夫 のコメント:

    京都からおはようございます。

    ところで、奥様の具合が少し悪くなったご様子です。
    先日送っていただいたご本「病室から」にも書かれてないのですが、医者の私からみて奥様の認知症の原因となる病気がアルツハイマー病ではないかと思っています。
    とすると、この病気が進むと記憶などの精神機能だけでなく、歩く、食べるといった身体機能の低下が起こることが多いのです。
    そうした状態になってきたのではないかと気になりますが、転倒や誤嚥を防ぐ注意が必要かと思います。
    私の妻の場合は、ちょうど3年前発病した非ヘルペス性辺縁系脳炎という稀な病気で認知症になりました。はげしいいもの忘れはありますが、身体機能は保たれ、認知症が進行することもありません。

    福島市のある小学校が地域の放射能ハザードマップを作って、生徒に持たせているとのことですが、ネット情報によるとお隣の伊達市は、保育所、幼稚園、小学校、中学校の子供たちに線量計を持たせ、月単位で被曝量を測定するとのことです。どのように使うのか、データの解釈をどうするのかよくわかりませんが、健康のためというよりは親たちの安心のためのとも報じられています。子供たち全員が胸に小型線量計を付けている光景も、また異様に思えます。
    福島原発事故以来、福島県には異様な光景があふれているのでしょうか。またそれが日常化しているのでしょうか。
    私も一度訪れたことのある元原町市の自然はそのままなのでしょう。この共存もまた不思議な光景です。

    私の情報源の一つにマイナーなマスコミである「週刊金曜日」があります。以前、ファンだった本多勝一が朝日新聞社を辞めて始めた出版社ですが、メジャーなマスコミにはない情報を提供しています(広告が少なく、1冊580年と高い)。その本多が紹介し称賛している東京新聞の記事によると、現在進行中の「菅おろし」運動に、日本の原発政策を確立し且つなお原発を推進したいとする自民党、さらには岩手の小澤、さらには福島の渡部の利害がからみ、菅さんの原発廃止の方向を阻止することも絡んでいるそうです。事実かどうか確かめようがありませんが。
    さらに驚いたのはあのIAEAは一見中立的な国際組織との印象がありますが、この組織も原発推進派だそうです。さらに驚いたのは昨日の「報道ステーション」でコメントしていた良識ある人とみていた日本総合研究所の寺島実郎は、この悲惨な原発事故があってもこれを教訓にさらに安全な原発を世界的に進める役割が日本にあると明言したのです。彼の言い分は日本でなんと言っても、中国をはじめ原発がドンドン増えるので、これを無視するわけにはいかないという経済人らしい発想です。さすば、これには独特の癖のある古舘伊知郎が異論を唱えていました。キャスターがコメンテータに異議を唱えるのは珍しい。
    まだまだ原発事故に懲りない人たちなのでしょうか。
    それに対して同じ番組の放映で、バルセロナでなんとか賞を受けた村上春樹が、「兵器の核」も「平和利用といわれる核」も止めようと明言しました。異例なほど長く彼の日本語の演説を流していました。世界的に著名らしい村上の小説はあまり読んでいなし好きでもありませんが、立派な講演でした。
    再び「週刊金曜日」の情報ですが、「放射能と食」について信じがたいデータが紹介されています。飲み物の含有放射能の基準値がアメリカと日本とでは桁違いで日本が高いのです。この情報源を調べてみると、ブログ「放射能について正しく学ぼう」なのですが、このFC2のブログではいろいろな「貴重な情報」が紹介されてはいるのですが、「資料をご利用の際は自己責任でお願いします」とアレと思う但し書きがついています。誰が作っているのかブログ内を調べても「匿名」なのです。自分では情報判断ができないような人が自分に都合のよい情報だけを提供しているのか、ただブログを作ることに楽しみにしているのかとも思えます。名乗ったうえで情報提供し主張すべきだと思います。こうした情報を無批判に推奨している「週刊金曜日」もまたおかしい。
    流行りのツイッターも匿名人たちのやりとりで私はついてゆけません。これでは匿名のネット社会に取り残される?

    原町のスーパーの「鮭弁当」というのは、宮城県南端にある亘理で昔、食べて美味しかった「はらこ飯」とは違がものですか。
    最後はグルメで。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

     お早うございます。妻のことご心配いただき有難うございます。そのうち居間を一階に移し、そしていつかは車椅子使用に、と覚悟はしてますが、今はともかく私自身の体力(と気力)が衰えないように頑張ってます。
     ところで鮭弁当は塩鮭一切れが入っているだけの普通の弁当で、はらこ飯とは違います。隣の松川浦のはらこ飯も実に美味でしたが、壊滅状態の今は食べられません。いつかまた復興して食べられるようになればと願ってます。

  3. 三宅貴夫 のコメント:

    再び京都から。
    そうですか。私もいつまで続くかわからない介護で自分の体力に配慮しながら、適当に手抜きしてみています。
    再び「週刊金曜日」からの情報ですが、
    福島の校庭の表面土を削る対策の根拠とする年間「1~100ミリベルト」の基準被曝量は国際放射線防護委員会(ICRP)のもので、この基準自体1~100とえらい幅のある基準で理解しがたいのですが、1ミリシーベルトの根拠として日本アイソトープ協会の佐々木康夫氏が内閣府の食品安全委員会のワーキンググループの会議で4月21日に意見を述べた中に、
    「年間1ミリシーベルトを生涯80年間浴び続けると仮定して、明らかに放射線被曝の影響が出る100ミリシーベルト内におさめるため」とあります。
    被曝線量のグレーゾーンである100ミリシーベルト内におさめるという一見、説得力があります。日本人の平均寿命―0歳児の平均余命―が80歳前後になっていますから、80年というのは妥当な期間ではありますが、その10年から30年後に影響が出るとなると90歳から100歳頃!?。
    医者の私にも許容被曝量―許容できるか出来ないかは誰が決める?―はよくわかりません。私見として年間100ミリベルト以内でよいのではと思ったりします。でも大人以上によく分かってない子供への影響―一般に放射線への感受性が高いとは言われているが、これも根拠となるデータがないようです―は別に考えた方がよいのでしょう。でもライフのためにライフの犠牲を強いられている子供たちのライフはこのままでよろしいか。福島の子供たちを全員疎開させるべきと主張する人もいますが、ちょっと同調しがたいと京都から思います。
    一度、送ったコメントは自分では訂正できないので追加して送りました。長々としたコメント、失礼します。

  4. 松下 伸 のコメント:

    以前から思ってました。
    「食文化」と言われるもの、
    何か勘違いを押しつけられているのでは?
    統治者の饗応を、理想の食事と・・
    フルコース、懐石料理、などなど。

    小さい頃、田舎の祖父の家で
    囲炉裏を囲んで、みなで食事しました。
    粗末でしたが、愉しい食事でした。

    「男子厨房に入らず」・・
    でも、厨房は、妻や母にも不要では?
    厨房は、大家さんの奉公人にのみ必要では?
    思います。 饗応、厨房、階級の発生は一体、と。

    何かもっと、理想の食文化があるのでは・・
    囲炉裏って、縄文以来の伝統を感じます。
    「までいの心」と、どこか繋がりそうな・・

                     塵 (懐)

  5. 宮城奈々絵 のコメント:

    奥様の様子、心配です。また、先生のお体、気力ともに心配してます。無理なさらず、まるで世界は二人のためにある、かのように、のんびり時間を過ごして欲しいです。
    東北は食べ物が本当に美味しいです。サイヤ弁当もきっと、こちらのスーパーの半額弁当より美味しいのでは…。
    私の今までで一番美味しいと思ったお寿司屋さん(高級寿司屋は行ったことないですが…)は津波で無くなってしまいました。新地町にあった「海の見えるレストラン」もです。いつか、違う場所で復活することを信じてます。
    話は変わりますが、Sさんはチャップリンがお好きなようで、よくコメントにお見かけします。実は私の一番好きなスター(?)なのですが、同年代の友達に言っても大体「誰?」と言われます。先生の年代の方達にはメジャーなのでしょうか?話が通じて羨ましいです。

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