意外や意外!

今朝の新聞第一面を見て、驚いた。原発避難者調査で、原子力発電を利用することに反対70%、賛成26%、その他・答えないが4%だったという。驚いた。これをまとめた新聞(記者)自身は特に驚いている風には読めないけれど、私自身は実に驚いた。私の予想は、反対85%、分からない・答えないが15%で、賛成など一人もいないだろうと思っていたからだ。
 私の予想通りだとしたら、どこかの知事さん、なんてぼかす必要も無いか、石原都知事なら、またもや集団ヒステリーなどと言ったかも知れないが、実際のアンケート結果に都知事がどう反応したかは知らない。たぶん妥当であると見ているか。あるいはどこかの新聞の編集委員氏のように、これは市民の成熟度を示す数値だとでもコメントしただろうか。
 それで本当のことを言えば、このアンケート結果を見て、かなりきついことも言わなければならないので、偽校長、偽市長、さらには偽総理に倣って、今回は一人の偽避難者をでっち上げ、彼女(彼でもいいが)宛ての私信を装おうとしたのだが、その人物像設定がどうもうまくいかない。たとえば彼女はかつての教え子の一人で、だんなは東電の下請け会社の社員、子どもは高校生の長男と中学生の次男の二人、といった人物像を設定してみたのだが、彼女自身のイメージがはっきりしない。もちろん私は小説家ではないので、それは潔くあきらめ、個別に問題点を指摘することにしよう。
 たとえば、新聞などの避難者の近況を伝えるコーナーに、おやまあ、といった避難者がいる。一例を挙げれば我が原町区のように家屋損壊もなく、電気も水も通っているのに、相変わらず福島市の避難所で暮しているような人たちのことである。放射能が怖くてー、もう三ヶ月も家に帰れないでいるの、などと首を傾げたくなるようなことを言っている。私が身内なら、おいおいもういいかげん避難所ごっこはやめて、家さ帰ってこねかー、と言うであろう。
 放射能が怖いことは事実だろうが、しかしそれ以上に、自分がいま新聞・テレビで連日放送されているもっともホットな話題の渦中にいることに不思議な安心感を持っているとしか思えない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心理である。もちろん支援者からの親切、そしてそれまで触れ合うことの無かった人たちとの不思議な連帯感、それは確かにすばらしい、しかし一日も早く自分の足で、自分の判断で自立しなければならないのではないか。避難所に現在何万人の人がいるかどうかは知らないが、私の予想ではそのうちの一割、つまり十人に一人は擬似避難者ではなかろうか。
 もちろん私には、そのような人を咎める気など毛頭無い。大きな括りでは被災者・犠牲者であることに間違いないからである。しかしその人たちのためにも、一日も早く自立への道に踏み出して欲しい。
 社会というものは(もちろんそこには報道する側が含まれる)、一見親切で思いやりが深そうに見えるが、しかし本質的には傍観者で無責任なものである。被災者の実情を顔を曇らせて報道していたと思ったら、次の瞬間、瞬時に頭を切り替えて、時にはにこやかな笑みさえ浮かべて「さて次のニュースは…」と、あたかも何ごとも起こらなかったかのように、冷淡に次の話題に移れる人たちなのだ(もちろんそれは職業的訓練の賜物なのだが)。
 ときどき若いお母さんたちが、将来この子が被災者だったということで差別されたり結婚できなかったりしたら可哀相、などと涙ながらに話す姿を見かける。それについてはだれも表立っては言わないが、そんな風評で差別してくる奴なんぞにこの可愛い娘をだれがやるもんかい!くらいの真の親心・気位を持って欲しい。つまりそんな世間の風評や冷淡さをものともしない、たくましい、そして魅力的な子どもに育てることの方が、はるかに大事なことなのだ。
 と言った具合に、老婆心ならぬ老爺心から言いたいことはたくさんある。しかし今日は、先ほどの問題に戻って終わりにしたい。つまり被災者なのに、原発を今後も操業することに賛成する人たちにこれだけは言っておきたいのだ。以前、貧しい炭鉱夫の一家を描いた映画「我が谷は緑なりき」に触れて言ったことだが、彼らは一家を支えるために、今日もまた落盤の恐怖におびえながら地下道に入っていく。東電の社員も危険な作業だと分かっていながら、町には他の雇用が無いから、仕方なく原発現場で働いている。しかしそこは決定的な違いがある。つまり炭鉱夫の危険は自分ならびに同僚たちの死の危険だが、東電の社員の危険は(というより危険な作業は協力会社の社員がやるらしいが)、事故の場合、単に自分ならびに同僚たちの死だけでなく、たとえば今回の事故のように、自分たちと関係のない多数の人たちの生命や人生を奪う危険に繋がるということである
 正直言うと、今回のアンケート結果を見て驚いただけでなく、怒りをこめた悲しさを味わっている。それほどまでに東電に恩義を感じているのか、そこまで東電によって洗脳されているのか、もっと辛辣に言わせてもらえば、それほどまでに自分たちの生活のことしか考えていないのか、という怒りである。
 こんな辛く悲しいことを、だれもあえて言わないのか、それとも言えないのか。

*因みに朝日新聞第一面のその記事に出ている37歳の主婦は、南相馬市原町区から西郷村に避難しているらしいが、すぐ側の白河市の今日の放射線値は0.53、そして彼女が不安で帰りたがらないという南相馬市原町区はそれより低い0.45である。記者氏はなにか魂胆があってわざとそういう例を選んだのか、どうか。私には全てが謎めいて見える。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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意外や意外! への3件のフィードバック

  1. 安里睦子 のコメント:

    私は最近新聞が信じられなくなりました。
    調査と行っても、結果はあらかじめ設定されていて、
    それに沿った調べ方をしていると思います。
    例えば、アンケートにある質問の言葉にしても、
    どうともとれるような意味合いのものにしたり…

    30年一日も欠かさず朝一番に新聞を読んできましたが、
    6月24日、とるのをやめると電話しました。
    でもだいじょうぶです。
    これからはきっと朝一番にモノディアロゴスを開く事でしょう。
    今日もそうでしたから。
    でも記念のその日が、新聞記事についてだなんて、不思議ですね。
    これからもどんどんかいて頂けるとありがたいです。

  2. 松下 伸 のコメント:

    新聞、私もやめます。
    A新聞。
    報道姿勢、論調、記事
    このところ、疑問多。
    C新聞。
    五木寛之の連載あり。
    このため、執行猶予~
                  塵(断)

  3. 宮城奈々絵 のコメント:

    私は新聞を10年前から取っていません。それ以前は…、実は変わった子なのですが、小学3年生の頃から毎日新聞を読むのを日課とする新聞少女だったのです。10年前、とてもよく知っている、ある団体の記事が載っていたのですが、前提となる基礎情報が出鱈目だったのです。少し、自分で調べれば分かるようなことです。「?」と思った私は、ある日、図書館に行って、同じ日の新聞記事を較べてみることにしました。何日分か見て、新聞というのは、記者若しくは会社の主義思想によってだいぶ違うということでした(気づくのが遅いですよね…)。
    それ以来、誰かの視点からでしか物事を知るのが嫌になり、取っていません。
    代わりにニュースをはしごしたり、ネット、雑誌、あらゆるものを雑食して、もう一度考え直すことにしてます。
    最近はニュースも酷くて見る気がしません。どんどん知る為の媒体が無くなっていく気がします。
    情報がただ事実としてだけでも広がらない国、ある統制がかかっている国、これからどんな国になっていくのか…、時々恐ろしくなります。

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