今こそ白紙撤回を!

南相馬市役所の企画経営課から「震災復興へ向けた市民意向調査票」なるものが送られてきた。B4判4ページのアンケートである。住まいの被災状況から今後の町づくり、そして最後は今後の放射線への安全対策について問うている。友人の一人のところには届いていないということだから、無作為抽出で送られてきたものであろう。アンケート用紙そのものが最初間違って十和田の方に送られたというミスについては、目をつぶろう。しかしどうしても看過できないのは、震災後初めて市民の意向を調査するにあたって、肝心要(かなめ)の問いがなされていないことである。
 「今後望まれる将来像は?」なんて、その問いへの明確な回答がなされないうちは答える気にもならない。今後10年先、20年先の町の未来なんぞ、そのことがはっきりして初めて明確な像を結ぶものである。で、その問いとは何か?
 先日の「週刊現代」でも言っておいた通り、南相馬市が原町市を中核にしてその北隣りの鹿島町、南隣の小高町と合併するときに、もっとも重要な案件をはっきり市民にも伝わる形で議論しなかった。つまり旧小高町とその南隣の浪江町がすでに東北電力と原発設置契約を結んでいたことを、議論しないまま合併に踏み切って今日に至ったというわけだ。今日、電話で市会議員X氏に聞いてみると、べつだん曖昧にしたわけではなく、その原発設置が現実のものとして迫ってきた際には、改めて討議するという一項をいわば担保として議事録に記録したというのだ。しかしこれもおかしな話だ。代議員制という民主主義のルールに沿っているとはいえ、そもそもそういう大事な問題点を市民に明らかなかたちで知らせないできたのは問題だ
 しかし今は、既に過去となったことについてとやかく言うつもりはない。行政の側にも、そして市民の側にも、そのことが実は飛び切り重要な問題であると認識していたのはほんのわずかな人たちに過ぎなかったからだ。しかし私が今問題としたいのは、まさにこれからのこと、これからの町のあり方を決定的に左右することである。
 風のうわさでは、佐藤福島県知事は脱原発宣言を用意しているとかしていないとか。私に言わせれば、なにを今さらだ。わずか二年前、核燃料リサイクル交付金計60億円と引き換えに、3号機のプルサーマル実施を承認したのはこの佐藤雄平ではなかったか。これまで脱原発を明言してこなかったのはその負い目があるからか。しかし県民にとってはまったく迷惑な話だ。
 ともかくこういう腰砕けの(テレビでは終始作業衣で神妙な顔つきをしていたが)知事でも脱原発宣言をしないはよりした方がいいが、しかし県知事が遅まきの宣言を発したところで、それにどれだけの拘束力があるかどうかは甚だ疑問である。つまり南相馬を構成する旧小高町そして浪江町が東北電力と交わした契約は、法的にはいまだ有効であり続けており、三者が、つまり南相馬市と浪江町と東北電力が改めて協議し、継続か白紙撤回を決めないかぎり、南相馬はこの先もずっと原発立地自治体予備軍のままでい続けなければならないわけだ。
 もしかすると、東北電力の方では、いまはそっとしておいて、いずれほとぼりが冷めたころ、さりげない風を装って契約履行を迫る魂胆かも知れない。東北電力、東京電力…つまり日本中に存在する全ての巨大電力会社は、1951年、東京電力は関東配電と日本発送電の共同出資で、そして東北電力は東北配電と日本発送電の共同出資で、そしてずーっと南の九州電力は九州配電と日本発送電の共同出資で出来上がった会社である。さて質問です、これら巨大電力会社に共通しているのは何でしょう?
 はいそうです、皆に共通しているのは日本発送電、略称日発(にっぱつ)でーす。これは電力の戦時統制を目的とした国策会社である。要するに日本中にある電力会社はすべて腹違いもしくは種違い(嫌な日本語ですけど、こいつらには使いたい)というわけ。つまり生まれも育ちも葛飾柴又、おっとこれは寅さん、生まれも育ちも半分は国策会社というわけでんなー。
 だから、ポーズだけの知事さんの脱原発宣言なんざ、一つも頼りにならない、ここは民主主義の王道、つまり市民側からの粘り強い問題提起と意志表示によって民意を示し、原発設置の証文を白紙撤回に追い込まない限り、またぞろゾンビ復活ということになりますぞい。そう、幸い今は、この南相馬は日本全国から注目されているとき、その応援をいただいて、この機を逃さずに市民の意思を明確に表現すべきではないか。
 みなさん、そんなわけで、どうか原発設置契約の白紙撤回を求める微力きわまりない私たちの主張が現実的な力となりますよう、ぜひ応援お願いいたします。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください